2022年1月6日(木)

2022年1月6日(木)


『彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこに主のための祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。』創世記12章8節


礼拝とは、神があなたに与えられた最良のものを神にお献げすることである。
自分が持つことになった最良のものをどう扱うかについては、細心の注意が必要である。

神から祝福をいただいたら、必ずそれを、愛の贈り物として神にお返しせよ。
神の前に黙想する時間をとり、意志を伴った礼拝行為として、その祝福を神にお返しするのである。

それを自分のために溜め込むと、やがて死蔵したマナのように霊的に腐敗していく。

神はあなたが霊的祝福を独り占めすることを決してお許しにならない。
それは神にお返しするものであり、神が他の人々を祝福することができるためのものである。

ベテルは神との交わりを象徴する場所であり、アイはこの世の象徴である。
アブラムは両者の間に「天幕を張った」。

公の場で神のためにする働きは、人知れず神と交わり、神と一つとなる程度の深さによって、その永続的な価値が測られる。

慌ただしいというのは、いつの場合も誤りである。
神を礼拝する時間は常に十分あるはずである。

日々の静思の時間を削り、何日かをまとめて静思に充てることが、かえって罠になる場合がある。
だからこそ、「天幕を張る」必要があるのだ。
この世と関わるときがどれほど喧騒に満ちていても、そこに行けば、いつでも神との静かな時が持てるからである。

霊的な生活に、礼拝(worship)、黙想(waiting)、そして奉仕(work)という三段階があるわけではない。
ところが、まるで蛙のように、礼拝から黙想へ、あるいは黙想から奉仕へと飛び移っているようにしか見えない人もいる。

その三つは一つになって機能する、というのが神のお考えである。

主のご生涯においては、その三つが常に一つであったばかりでなく、それらが完全に調和していた。
それは育むべき訓練の一つであり、一夜にして身につくことではない。

God Bless You!!


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