2022年1月30日(日)

2022年1月30日(日)


『サムエルは、この黙示のことをエリに知らせるのを恐れた。』サムエル記第13章15節


私たちが驚くような方法で神が語られることはめったにない。
むしろ、誤解してもおかしくない方法で語られる。

「あれは神の御声だったのだろうか」と……。

ところがイザヤは、主が「強い御手をもって」語られたと言っている。
つまり、イザヤが置かれた危機的状況を通して語られたのである。

神ご自身が語られること以上に、私たちの人生に影響を与えるものはない。
私たちは物事を、神の御手の動きとして察知しているだろうか。
それとも、単なる偶発的な出来事と見ているだろうか。

「主よ、お話しください」と言う習慣を身につけよ。
そうするなら人生は神と織りなす愛の物語となる。
八方塞がりの状況になったら、いつでも「主よ、お話しください」と言うのだ。

耳を澄ませる時を持て。
神からの懲らしめとは訓練以上のものであり、「主よ、お話しください」という地点に私を立ち返らせてくれるものなのである。

神があなたに語りかけてくださったときのことを思い返してみよ。
主が何と言われたか忘れてしまっただろうか。
それはルカの福音書11章13節だったか、それともテサロニケ人への手紙第一、5章23節であったか。

耳を澄ませていると、私たちの耳は鋭敏さを増し、ついにはイエスのように、常に神の御声を聞くことができるようになる。

「祭司エリ」のような恩人に、神が私に示されたことを伝えるべきであろうか。
これこそ、従順であろうとして、身動きがとれなくなる場合である。

「エリのような、自分が知るなかで最良の人々は、私が守らなければならない」と考え、私たちが神の摂理に介入するのは、神に背くことにほかならない。

神は、エリに告げよ、とサムエルに命じてはおられない。
サムエルは自分で判断しなければならなかった。

あなたに対する神の呼びかけは、あなたの「エリ」を苦しめることかもしれない。
しかし、他の人の人生に起こる苦しみを未然に防ごうとすれば、やがてあなたのたましいと神との間に障害物を設けることになる。

他の人の右の手が切り落とされたり、目がえぐり出されたりするのを未然に防ぐためには、自分自身がその危険を負う覚悟がなければならない。

神があなたに御前で決断させようとしておられることに関して、他の人の助言を決して求めてはならない。
もし求めればほぼ間違いなく、あなたはサタンの側に立つようになるからである。

パウロは言う。
「私は血肉に相談することをせず」と。

God Bless You!!


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