2022年1月28日(金)
『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。』使徒の働き26章14節
私は自分の思いどおりのやり方で、神のために生きようとしていないだろうか。
「聖霊と火」のバプテスマという経験を通らされないかぎり、私たちはこの罠から抜け出すことはできない。
頑固さとわがままは、いつの場合でもイエス・キリストを突き刺すものである。
ほかのだれも傷つかないとしても、キリストの御霊には深い傷を負わせる。
私たちが頑固でだれにも耳を貸さず、自分の野心のままに突き進むたびに、私たちはイエスに傷を負わせているのである。
自分の権利を主張し、自分がしたいことを手放そうとしないなら、そのたびに、私たちはイエスを迫害しているのである。
自尊心を主張するたびに、私たちは計画的にキリストの御霊をてこずらせ、嘆かせているのである。
私たちがずっと迫害を加えてきた相手がイエスご自身であったことが明らかになり、胸に落ちることほど大きな衝撃はない。
神のみことばは、他の人に伝えるときと同じように、自分自身にとっても限りなく鋭いだろうか。
私の生活は、自分が人に教えていると思っていることに背いてはいないだろうか。
人には聖化について教えながら、私は、イエス・キリストを迫害したサタンの精神でいるかもしれないのである。
イエスの御霊が意識しておられるのはただ一つのことである。
それは御父との完全な一体性である。
そして主はこう言われる。
「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすれば、たましいに安らぎを得ますと。
私のすることはすべて、敬虔な人間になろうという自分勝手な決意ではなく、イエスとの全き一致を土台にしてなされなければならない。
その結果、私は人から不当な扱いを受け、出し抜かれ、自分の存在が無視されるかもしれない。
しかし、主のためにそのような状況を受け入れるなら、私はイエス・キリストに加えられようとする迫害を阻止できるのである。
God Bless You!!
a:43 t:1 y:0