2022年1月26日(水)
『…野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。』マタイの福音書6章30節
イエスが率直(simple)に表現されたことは、私たちも率直にならないかぎり、常に不可解である。
どのようにしたら、私たちもイエスのように率直な生き方ができるのだろうか。
そうするには、イエスの御霊を受け、イエスを認め、イエスに拠り頼み、神のみことばを示されたときにはイエスに従うことである。
すると、私たちの生き方も驚くほど率直なものとなる。
イエスは「野の草さえこのように装ってくださるあなたがたの御父は、野の草にもましてあなたがたを装ってくださるか、考えてみよ。
ただあなたがたが御父と正しい関係を保ちさえするなら……」と言われる。
私たちと神との交わりが後退したのは、いつの場合でも私たちが不遜にも、イエス・キリストより自分のほうが、状況が分かっている、と思ったことが原因である。
つまり、「この世の思い煩いの侵入を許し、天の御父が「もっと良くしてくださる」のを忘れてしまったためである。
「空の鳥を見なさい」とイエスは言われた。
鳥は、自分のうちにあるいのちの法則に従うことを第一の目的にしている。
そういう鳥たちを神は見守っていてくださるのである。
「神との関係を正しく保ち、あなたのうちにおられる御霊に従うなら、神は、あなたの羽毛(feathers {取るに足りない問題} という意味もある)にさえ心を配ってくださる」とイエスは言われる。
「野の花がどうして育つのか、よく考えなさい」とイエスは言われた。
野の草 {英訳は「ゆり」} は植えられた場所で育つ。
ところが私たちの多くは、神が植えてくださるところで育とうとしない。
その結果、どこにも根を下ろすことができなくなってしまうのである。
内なる神のいのちに従いさえすれば、あとのことはみな神が心配してくださる、とイエスは言われた。
イエス・キリストは嘘をついたのだろうか。
私たちは、「もっと良くしてくださる」というイエスの約束を経験しているだろうか。
もしそうでないとすると、その理由は、神に与えられたいのちに従わないため、そして、いろいろな迷いや心配で頭がいっぱいなためである。
神への奉仕に思う存分集中することができたはずの時間を、私たちは無益な疑問を神にぶつけることにどれだけ浪費したことだろう。
聖別とは、神が私を任命されたこと以外のあらゆることから、絶えず自分を分離することである。
聖別は一回で完了するものではなく、進行を続ける過程である。
私は、絶えず自分を他のものから切り離して、日ごとに神を見上げているだろうか。
God Bless You!!
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