2022年1月25日(火)
『しかし、…神が、…良しとされたとき、·…。』ガラテヤ人への手紙1章15節〜16節
神のしもべである私たちは、神が働かれる余地を十分残しておくことを学ばなければならない。
私たちは計画を立て、計算をし、このこと、またはあのことが起こるだろう、と予測する。
ところが、神がみこころのままに来られたときの場所を空けておくことをすっかり忘れている。
もし神が、全く予期しない方法で、私たちの会合や説教の場においでになったら、私たちは驚くのではないだろうか。
神がおいでになる特定の方法を探すのではなく、神ご自身のお姿を探せ。
神の場所を空けておく、というのは、神が来てくださると期待することである。
しかしその方法は一定ではない。
私たちがどれだけ神を親しく知っていようとも、神のご介入はいつあるかわからない。
これは、学ぶべき大切な教訓である。
このような驚きの要素を私たちは見落としがちである。
しかし、それ以外の方法で神が働かれることは決してないのである。
「神が良しとされたとき」神は突然、私たちの人生の前に現れたもう。
神の驚くべき力が、いついかなる時に現れてもいいように、常に神と接して生活せよ。
常に神に期待する思いをもって生活し、神がいつ来てくださってもいいように、場所を空けておくのだ。
God Bless You!!
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