2022年1月20日(木)

2022年1月20日(木)


イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」』ヨハネの福音書3章3節


私たちは、ときには新鮮な気持ちで祈り会に参加する。
しかし、それと同じように新鮮な気持ちで、泥だらけの長靴をきれいにすることができるだろうか。
(チェンバーズの時代、まだ未舗装の道路が多かった)

御霊によって新しく生まれるというのは、紛れもなく神のわざである。
それは風の動きのように神秘的で、神ご自身のように驚きに満ちている。

新生がどこから始まったのか、私たちにはわからない。
それはたましいの奥深くに隠されたままである。
上から新生するというのは、永続的で終わりのない、永遠に及ぶ始まりである。

そのおかげで、考えることにも、話すことにも、日常生活にも常に新鮮さが伴う。
神からのいのちは驚きの連続である。

それに対し、生気のなさは、私たちの歩みの中で神と歩調が合っていないことのしるしである。

「これを今やらなければ、いつまでも終わらないから」と私たちは言う。
これこそ、生気を失った最初のしるしである。

今のこの瞬間、私たちは生まれた直後のように生気に満ちているだろうか。
それとも生気を失い、何かすることはないか、とあれこれ考えているだろうか。

生気にあふれる信仰生活とは、服従の結果もたらされるものではなく、聖霊からもたらされるものである。
服従とは、神が光の中におられるように、私たちを光の中に保ってくれるものである。

神と自分との関係を用心深く見張れ。
イエスは「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるため」、すなわち、両者の間に何ものも入ることがないように、と祈られた。

自分の全生活を、ィエス・キリストにいつまでも開放しておくのだ。
主に開放しているふりをするのではいけない。

あなたは、神ご自身ではない何かほかの源泉からいのちを汲み出してはいないか。
もし主以外の何かを活力の源としているなら、やがて神がおられなくなっても、それに気づくことさえないであろう。

御霊による新生には、私たちが通常考えるよりもはるかに多くの意味がある。
私たちに新しい幻を与えてくれるばかりか、決して尽きることのない神のいのちの供給によって、私たちが何に対しても新鮮な気持ちで取り組めるようにしてくれるのである。

God Bless You!!


a:39 t:1 y:0