2022年1月17日(月)
『神が、……御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、……。』ガラテヤ人への手紙1章15節、16節
神からの召しとは、特定の奉仕への召しではない。
私の解釈によれば、そうかもしれない。
神のご性質にふれているうちに、神のために自分は何をしたいのかが分かってくるからである。
しかし、神の召しは本質的に神のご性質を表したものであり、奉仕は私の性質に適合したものである。
生涯に対する召しについては、使徒バウロがこう述べている。
「神が御子を私のうちに啓示することを良しとされたのは、私が御子を異邦人に厳かに宣べ伝えるためである」と。
奉仕とは、あり余るほどの献身の思いからあふれ出たものである。
しかし厳密に言えば、奉仕そのものに召されることはない。
奉仕とは、私自身が実際になす小さな役割であると同時に、私が神のご性質に同化されたことの現れなのである。
奉仕は自然に私の生活の一部になったもの、と言ってよい。
神は、召しとはどういうものか私が理解できるように、私をご自身との正しい関係の中に入れてくださる。
すると私は、ただ神を愛する思いから、進んで神に仕えるようになるのである。
神への奉仕とは、神からの召しを聞いた人が、自らの意志で神に献じる愛の贈り物である。
奉仕は私の性質にふさわしいものを表し、神の召しは神のご性質を表している。
その結果、神のご性質を受けた私が神の召しを聞くと、神の御声は神と私の両方に共鳴し、両者は協力し合う。
神の御子がご自身を私に啓示されると、私は献身の思いから、奉仕が日々の生き方になっていくのである。
God Bless You!!
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