2022年1月15日(土)

2022年1月15日(土)


『私たちは、……キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが……死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。』ローマ人への手紙6章4節


だれであれ、「白い葬儀」(イギリスのヴィクトリア女王は、当時、喪服の色とされていた白のドレスを着て、アルバート公との結婚式を行った)、すなわち古い自分を葬ることなしに完全な聖めを経験することはできない。

このような死という決定的降隣間を一度も通ったことがないとすれば、聖化はとらえどころのない夢で終わってしまう。

「白い葬儀」は、だれしもが経験しなければならないものである。
死んでただ一度よみがえり、(花婿なる)イエス・キリストのいのちにあずかる、という死である。

このようないのちを損なうものは何一つない。
それは神の証人となるというただ一つの目的のために、神と一つになるといういのちである。

あなたは本当の意味で自分の最後の日を迎えただろうか。
頭の中では何度となく、それを経験した。
しかし、実際に経験したと言えるだろうか。

どれだけ気持ちが高揚したとしても、死ぬことも、自分の葬儀を経験することもできない。
死とは、自分という存在が停止することである。
今までのような熱心と努力を謳うクリスチャンとしての自分と訣別することに、神と同意しただろうか。

私たちはそのような「墓場」を迂回し、死ぬことをひたすら拒む。

頑張ることによって死に至るのではない。
死んで、「キリストの死にあずかるバプテスマを受ける」のである。

あなたは自分の「白い葬儀」をすませたか。
それとも、敬虔を装い、自分のたましいを欺いているのだろうか。
今までの人生を振り返り、これが(古い)自分にとっての最後の日だ、と明示できる日があるだろうか。

今までの人生の記憶をたどっていくときに、へりくだり、感謝にあふれて、「はい、その時でした、私が神に同意し、『白い葬儀』をすませたのは」と言える時があるだろうか。

「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」とあるが、ひとたび、これが神のみこころであると本当に分かったら、ごく自然に聖化の過程に入っていくはずである。

あなたはそのような『白い葬儀』を今、経験してもよい、と思っているだろうか。
今日という日が、(古い)自分にとって、地上で過ごす最後の日となってもよい、と神に同意できるか。

この同意をいつするかは、ひとえにあなた次第である。

God Bless You!!


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