2022年1月10日(月)

2022年1月10日(月)


『わたしは、あなたを……遣わす。それは彼らの目を開いて、……彼らが罪の赦しを受けるためである。』使徒の働き26章17節、18節


新約聖書全体を見渡しても、この聖句ほど、イエス・キリストの弟子が伝えるべき使信の核心を凝縮したものはない。
神が主権者として最初に行ってくださる恵みの働きは、「彼らが罪の赦しを受けるため」ということばに要約できる。

クリスチャンとして失敗の経験をするのは、大抵の場合、まだ何も受けていないからである。
救われた、というしるしは、イエス・キリストから受けたものが何かある、という以外には何もない。

神に仕える者としての私たちの仕事は、人々が暗闇から光へ方向転換できるように、その目を開くことである。

しかし、それは救いではなく、回心、つまり目覚めた人がする努力の段階である。
いわゆるクリスチャンと呼ばれる人々の大半の実情はそのようなものであると言っても過言ではない。

目は開かれた。
しかし、まだ何も受けていないのである。

回心は新生と同じではない。
今日、この点に関する説教はなおざりにされている。

人が新しく生まれると、それは自分の決心によるのではなく、全能の神からいただいた賜物のおかげであると分かる。

一般に、人々は誓いを立て、約束に署名し、最後まで(信仰者として)歩もうと固く決意する。
しかし、そのどれ一つをとっても、救いと呼ぶことはできない。

救いとは、イエス・キリストの権威に基づいて、私たちが神から罪の赦しをいただくところまで導かれることだからである。

救われた後に、恵みの二番目の奇跡が続く。
「聖なるものとされた人々とともに相続にあずかる」ことである。

聖化されたことにより、新生したたましいは、自分の意志で自らの権利をイエス・キリストに明け渡し、神が人々に持っておられる関心を、そのまま自分のものとするのである。

God Bless You!!


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