2022年1月1日(土)

2022年1月1日(土)


『私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。』ピリピ人への手紙1章20節


「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく……。」

イエスに明け渡しを求められていることを明け渡さないままでいると、やがて恥をこうむることになる。
パウロは言う。
「神の最高の栄光のために自分の最善を尽くそうと、私は決意している」と。

ここまでの決意に達するかどうかは、議論や理屈の問題ではなく、意志を明け渡すかどうかの問題である。
それは完全に、また取り消し不能なものとして自分の意志を明け渡すことである。

私たちは、他の人に迷惑がかかりはしないか心配しているのだと弁解をするが、その決断を妨げているのは、結局は自分自身に対する過度な気遣いなのである。

もし私たちがイエスの呼びかけに従えば、他の人にどれくらい迷惑がかかるかを考えると、私たちが従うということの意味を、そもそも神はご存じないのではありませんか、と神に訴える。

話をそらしてはいけない。
神はご存じである。

他の考えはすべて締め出し、ただ神の栄光のためにすべてを献げるという思いをもって、神の御前にとどまるのだ。
私自身も完全に、またひたすら、神のためにだけ生きようと決意している。

「その結果、生きることになろうと、死ぬことになろうと、どちらでも構わない!」

パウロは、何があっても神が望まれるとおりに行動しよう、と心に固く決めていた。
しかし私たちは、神のみこころに従う選択をする前に、自分の中で危機が増大していくのを経験しなければならない。

神が優しく「肘でつついて」おられるときに何も反応しなかったためである。

私たちのすべてを献げよ、と神が望んでおられる場所に神は伴っておられるのに、私たちに迷いが生じる。
すると神は、私たちが従うか、それとも退くか、態度を決定しなければならない危機を、摂理の中で起こされるのである。

その瞬間が私たちの人生にとって大きな岐路となる。

もし、どのような方面からでもそのような危機の時が訪れたら、自分の意志を完全に、また取り消すことのできないものとしてイエスに明け渡すことである。

God Bless You!!


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