2021年9月9日(木)
『わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。』ヘブル人への手紙6章1節
これは信仰がいつも初歩にとどまっていることへの勧告である。
信仰は、年月をへていけば自然と固まっていくものではない。
信仰そのものは決して段階的に高まっていくものでなく、あるか、ないかであって進歩したり発展したりするものではない。
なぜなら、私たちのほうから信仰していくのでなく、信仰とは神からいただくものだからである。
弟子たちが「わたしたちの信仰を増してください」と大きく発展していく信仰を要求したのに対して、イエスは、からし種一粒の信仰があればいいのだと言われた。
信仰は量でなく質であるということだ。
しかし、いつまでたっても信仰の確信に立たない、信仰を得ていないと思っている人は多い。
キリスト教のいいところにふれているかもしれないが、満たされた喜びがない。
いつも律法の世界であって、教会へ行かなければならない、献金しなければならない、奉仕しなければならない、証しをしなければならないの連続で、ついに教会へ行かなくなる。
これは教会がだめなのではなく、その人が教会の真実、信仰の真実にふれていないからである。
そこまで至らず、そのまわりで信仰生活の喜びをながめている。
これが初歩ということである。
エレミヤの哀歌に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」とある。
神の憐れみが尽きないから、私たちの信仰生活はかろうじて保っていけるのである。
私たちが持ち続けているのではない。
神が少しも働きかけてくださらなかったら、私たちはとうの昔に信仰を失ってしまっている。
人を導く場合も、その人だけを見ていたら、ほとんど絶望する。
「ああなってしまっては」と私たちは思う。
ここで石からアブラハムの子どもを起こすことのできるかたへの信仰を持たなければ、私たちは自分に対しても、人に対しても、望みを持ち続けることはできない。
どんなにかたくなっていても、石ころのように反応がなくても、神は必ずこの人に御手を伸ばして再び生かしてくださると信じてはじめて、私たちは伝道をしていくことができるのである。
信仰を完成するということは、全うするということに通じる。
全うするためには、忍耐こそ唯一のものである。
ヘブル人への手紙のテーマはまさに忍耐ということである。
聖書の忍耐とは希望を持って待ち望むこと、御言葉に従って待ち望むことである。
それが私たちの信仰生活を全うさせる力であり、完成へと進めるものである。
この服従の忍耐を続けるとき、私たちは神の幕屋に入ることを許され、神と相対して、「神が人と共に住み、人は神の民となり……」という世界に生かされるのである。
God Bless You!!
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