2021年9月8日(水)の手紙

2021年9月8日(水)


『キリストは、……祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。』ヘブル人への手紙5章7節


ゲッセマネの園でのイエスの祈りは、人間としてのイエスのぎりぎりの祈りであった。
また、私たち信徒への命がけの見本であった。

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。

ヘプル書の記者は「激しい叫びと涙とをもって」祈られたと記しているが、この祈りは聞き入れられたのではない。
なぜなら主は十字架につけられたからである。

けれどもヘブル書の記者は、それを聞かれたと記している。
深い信仰のゆえに聞かれたと記しているのだ。

それはイエスが、「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈ったからである。
御心が成ったのである。

イエスの祈りの結論は、御心が成りますようにであって、自分の願いがかなえられますようにということではない。

私たち信徒の祈りも願いがあってよいし、病気をしている人は、素直になおしてくださいと祈るべきである。
しかし、なにがなんでも私の病気をなおしてくださいという姿勢はどうなのか。

舟が沈みかけているとき、私たちは「神様、助けてください」と祈る。
けれども、神の御心を問わず、ただ生かしてくれというのは、悲鳴であって、祈りではない。

ただ悲鳴だけに終わるのは信仰者の祈りではない。
その悲鳴が祈りになっていくためには、「しかし、私の思いでなく、御心を成してください」という祈りで結ばれなければならない。

私にとっては、これは悲しく、苦しい。
この苦しみを取ってほしい。
けれど、あなたの御心ならば甘んじて受けますと言うのである。

大事なことは、私が長く生き、楽な生活をすることではなく、この苦しみからのがれることでもなく、主の御心が成ることである。
これが私たちの信仰である。

ゲッセマネのイエスは、その後十字架につかれたとき、祈りは聞かれたと思ったであろう。
だが、それは聞かれてよかったなどという安らかなものでなく、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と神に叫ばなければならないほどの苦しみであった。

けれども、その苦しみを通して神の業がなされていったのだから、「エリ、エリ、レマ、サパクタニ」の叫びも祈りが聞かれていく過程である。

私たちの信仰生活の中で、キリストがわからなくなるときがある。
神の沈黙である。
これは信仰者にとって最も耐えがたいときである。
神に望みを置く者が、その神に沈黙されたのでは、立つ瀬がない。

でもそのときこそ、自分中心の信仰が神中心のものになっていくのを気づかされるのである。

God Bless You!!


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