2021年9月30日(木)の手紙

2021年9月30日(木)


『わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について……。』ヨハネの手紙第一1章1節


ヨハネの手紙が書かれたころは、初代教会が二世、三世の時代に移っていた。

いつの時代でも言えることだが、信仰生活に入ったときには感動がある。
ところが、二世、三世になると、そういう感激はなくなってくる。
生まれたときから親に教会へ連れていかれて、燃えず冷えずというような信仰生活になっているからだ。

この手紙には迫害というものが全然出てこない。
ヤコブやペテロの手紙では、迫害のさなかの様子が、「悪魔が、ほえたけるししのように」などと書かれていた。

しかし、この手紙が書かれたころのエペソの教会は迫害の前であって、比較的平穏であった。
「世と世にあるものとを、愛してはいけない」との言葉にもそのような背景がある。

きょう殺されるか、あす殺されるかわからないとき、人は世と世の欲を愛することなどできない。

そのように平穏であったのはよいことでもあるが、反面そのことから一つの危険が出てきた。
それはギリシャ哲学のように一つの知識として、キリスト教信仰を受け止める運動である。

これがグノーシス派と言われる人たちの態度である。

精神を尊んで肉体を卑しむのが彼らの基本的態度である。
そういうものは、いまでもキリスト教の教理の中で影響を及ぼしている。

旧約聖書を見ると、肉体は神が土で造ったと書いてある。
神が造られたということは、肉体をけがれたもの、精神を清いものとするギリシャ的な考え方とは全然違う。
だから創造の神というのはヘプル思想から生まれてくるものであって、ギリシャ哲学においては生まれてこない。

パウロたちも肉はけがれたものだとは説いていない。
グノーシス派は、イエスが肉体を持って生まれたということまで否定した。
受肉というものはないと言うのである。

これはもうキリスト教信仰ではない。
なぜならキリスト教信仰は、肉を持って神の子が生まれたことに意味があるからである。

キリスト教信仰は大きな危機を迎えていた。
このような事情のもとに書かれたのがこの手紙である。

1節の言葉もそうするとよくわかる。
イエスは架空の人とは違うと言っている。
見て、聞いて、さわったかた、歴史の中に生きてくださったかたである。

だから、歴史の中で望みを失っている私たちに希望がある。
これが「いのちの言」ということである。

キリスト教信仰は、どこまでも神の働きかけに対する私たちの感動から生まれたものである。
こんな私に対して、神はこれほどの大きな犠牲を払ってくださった、ということがはっきりしていることがいちばん大事なのである。

イエス・キリストにおける神の愛が私たちの信仰の原点である。
そこに立たなければ信仰の証し人とはならない。
だから私たちはイエスとの交わりの中に生きることを大きな願いとしていきたい。

God Bless You!!


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