2021年9月28日(火)の手紙

2021年9月28日(火)


『おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。』ペテロの手紙第二2章19節


「この人々に自由を与えると約束したながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。
おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである」という9節の言葉はすばらしい。

私たちはいったい何に征服されているか。
肉の欲に征服されている者は、肉の欲の奴隷になる。
この世に征服されている人はこの世の奴隷になる。

しかし、私たちが神に征服され、イエス・キリストに征服されているなら、私たちはその奴隷である。

パウロは、自身をイエス・キリストの僕と言っているが、そのときあらゆるものから自由になることができた。

私たちはいつも何かの奴隷であり、何ものの奴隷にもならない人間はいない。
私たちがイエス・キリストに征服されるとき、その奴隷となっていくことができる。

そこでは自分というものがなく、イエスの意のままに生きていく。
ただイエスだけがある生活、これが征服された者の生き方である。

神に征服された瞬間、私たちは神がどんなにすばらしいかたであるかがわかる。
万巻の書物を読んでも、生ける神の栄光を見ることはできない。
栄光の目撃者になるには、ただイエスに征服されたらよいのだ。

イエスに征服され、神に征服されることは、明け渡すということである。
明け渡せば神が私たちの主人になってくださって、私たちは清くなるのである。
もはや自分で清くなろうと努力する必要はない。

ただ私たちがイエスの奴隷になっていくとき、私たちはイエスに似る者とさせていただくことができる。
やさしくなりたいならイエスに征服されることである。
心豊かな者になりたいなら、神の征服に甘んじることである。

さてペテロは、この章でにせ教師のことを言っている。
「彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなってくださった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。
また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである」

にせ教師とは、放縦をすすめる者であると指摘されている。
放縦とは自分の思いのままに生きていくということである。

ドイツの哲学者が倫理は傾向への抵抗であると言っているが、人間には一つの傾向、流れがあって、それに抵抗していくことが倫理である。

信仰も同じである。
私たちは放縦という一つの傾向を持っている。
肉体を持ってこの世に生きている以上、それと闘うことなしに信仰の勝利は得られない。

私たちはこの世のものに対する未練とか、肉欲とか、そういう誘惑を絶えず受けている。
しかしそういうものに征服されないで、しっかりと神に征服される者になっていこうというのが、この第2章のすすめである。

どうか主に征服される者になろう。

God Bless You!!


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