2021年9月25日(土)
『彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない。』ペテロの手紙第一4章5節
「彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない」とある。
繰り返し私は言うが、キリスト教信仰の目標は、やはり生ける者と死ねる者とを裁くかたが来られるという信仰である。
再臨信仰……それがなくなれば何のためにキリスト教信仰をしているのかわからなくなってしまうのではないか。
私たちは神の前に立って一つ一つ自分がしてきたことについて申し開きをしなくてはならない。
そのときに私たちは、果たして堂々と立つことができるだろうか。
以前、聖地旅行へ行ったとき、あのイエスが試みにあわれただろうという荒野を見た。
そこは草も生えないようなところであった。
そういうところで40日過ごされたのは、ほんとうに恐ろしいことであったと思う。
そこに修道院が造られ、いまでも隠遁生活をしている人があるそうだが、神が共にいてくださるという信仰がなければとてもできない。
キリストのものになるというのは、この世のものからキリストのものに変わることである。
それによって起こるいろいろなことについて不安になるのは、まだ体はこの世にあって、頭ぐらいが神のほうへ向いているというような場合が多いからではないかと思う。
「万物の終りが近づいている。
だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい」。
私たちは手に触れるように、万物の終わり、すなわち主の再臨を知ることはできない。
しかし私たちは約束を与えられているのだから、その約束をいつも確認することが大事である。
この世のいろいろな出来事や流れの中で、それでも神はこう言われたのだからと、いつもはっきりしていくことが、「心を確かにし」ということである。
「身を慎む」ということも同じであって、その確信に対して純粋に生きていくのである。
「努めて祈りなさい」ということは、自分の願いを言うのではなくて、むしろ神の御心を聴いていくことである。
神の御声を聞いていかなければ、私たちはこの厳しい現実の中で心を確かにしていくことはできない。
そういうふうに毎日聖書を読んでいかなければ、観念的な信者になることはできても、信仰者として生きていくことはできない。
God Bless You!!
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