2021年9月24日(金)の手紙

2021年9月24日(金)


『知識に従って妻と共に住み……。』ペテロの手紙第一3章7節


第3章には妻と夫のことが書かれてある。
「妻たる者よ。夫に仕えなさい」。

信仰のない夫であっても、清い生活という無言の証しによって、救いに入れられるようになるだろう。
外面の飾りでなく、内にある飾りを尊んでいきなさい、とペテロは言う。

そしてアプラハムとサラの話から、仕えることを強調する。

仕えるというと、私たちはなにか卑屈なものを感じやすい。
しかし聖書が仕えると言う場合は、必ずイエス・キリストが考えられている。

仕えるということには、イエス・キリストが私たちに仕えてくださったという前提が、無言のうちに語られているのだ。

なにがなんでも妻は夫に仕えなければならない、主人の言うとおりにしなさいという意味ではない。
あなたもイエスに仕えられたではないか、仕えていただくことによっていまがあるではないか、だからあなたは夫に仕えていかなければならないと言うのである。

「夫たる者よ。
あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。
それは、あなたがたの祈が妨げられないためである」。

「知識に従って」の知識という言葉は、表面的なものではなく、神についての知識ということである。
ペテロは「知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい」と言う。

自分だけでなく共々に神の恵みにあずかっている者である、またあずかることのできる者であるとしていくときに、私たちはその人を尊ぶことができる。

私はこれからの世界でいちばんたいせつなのは、人を尊んでいくことではないかと思う。
人権の尊重と言ってもよいかもしれないが、これがこれからの私たちの歩みの原理になっていくと思う。

世界のどんな人たちに対しても、一人の人として尊ぶ世界でなければほんとうの平和は来ない。
しかし、その人を尊んでいくためには、その人に注がれている神の御心を認めていかなければならない。

「キリストは彼のためにも、死なれたのである」。

人間はみな欠点を持っている。
しかしそういう見える世界ではなく、神はあの人のためにも、イエス・キリストをこの世に送り、血を流されたのであるという信仰に立つとき、私たちははじめて共々にその恵みにあずかり、その恵みを受け継ぐ者として、その人を尊んでいくことができる。

そこにほんとうの愛が生まれてくる。

価値があるから尊ぶのではない。
その人が持っている能力というような外側のものではなくて、その人に注がれている神の愛において、人を尊んでいくのである。

そこにほんとうの平等、平和があるのではないかと思う。

God Bless You!!


a:36 t:1 y:0