2021年9月23日(木)
『この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものである……。』ペテロの手紙第一2章7節
私たちは信仰生活によって、この世の人が知らないことを知る。
この世の評価、基準と私たちのそれが一致することもあるが、一致しないことも多く出てくる。
多くの人は自分がどこから来てどこへ行くかを知らない。
ただその中間の人生しか知らないのだ。
そういう人はいまのことだけしかわからず、ほんとうの生きる目標はわからない。
しかし私たちはどこから来てどこへ行くかを知っている。
私たちは神によって造られ、そしてやがて来られる主に備えて生きているのだ。
この世の人たちからすれば、そんな私たちは変わり者、愚かな者に映るであろう。
私たちは、この世の人たちからは受け入れられない一つの狭い門を通っていかなければならない。
この世の広い門を通って、しかも生命に至ろうとしても、そうはいかない。
「命にいたる門は狭く、その道は細い」とイエスは言われた。
私たちは狭い門を通らなければならず、おおぜいの人が通っている道を行くことはできない。
そういう徹底さというものを私たちは欠きやすい。
そして広い門を通って命に至ろうとするような、虫のいい考え方をしがちではないだろうか。
この世か神か、どちらか一つを取らなければならないのに、両方ともと思うのはまちがいである。
信仰は決断である。
決断とはどちらかを捨てることであり、決断のないところに信仰生活はない。
「主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である」。
私たちもそのように神から選ばれた者であれば、イエスの道を歩むことなしに、神の栄光にあずかることはできない。
イエスが人に捨てられたのであれば、私たちも人に捨てられなければならない。
「キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」とパウロが言っているのはそのことである。
私たちはもう一度自分の信仰姿勢をはっきりさせなければならない。
教会に来たからといって救われるものではない。
イエス・キリストによって救われるのである。
イエス・キリストとどのようなかかわりを持つかということが大事である。
教会員が陥りやすいのは、教会へ来ていれば救われると誤解することである。
聖書のどこを見ても教会に行けば救われるとは書いていない。
イエス・キリストの十字架によってのみ救われるのである。
そういう点で、私たちはもう一度自分の立ちどころはどこであるかを、はっきりさせなければならない。
「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。
それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」。
尊い石、隅のかしら石は人に捨てられた石である。
しかしこの石に依り頼んでいくところにしか、生命にあずかる道はないのである。
God Bless You!!
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