2021年9月20日(月)
『あなたがたは、求めないから得られないのだ。』ヤコブの手紙4章2節
この第4章は、信仰のためのさまざまな言葉が夏の夜空の星のようにちりばめられているところである。
「あなたがたは、求めないから得られないのだ」。
私が牧師としていつも思わされるのは、信仰には鉄則があるということである。
それは「求めなければ与えられない」ということである。
これほどはっきりした現実はないと思う。
「恵まれない」と不足を言う人の多くは、見ているとほんとうに求めてはいない。
神にはご計画があるから、朝求めて晩に与えられることはないかもしれない。
しかし、求めた人には必ず与えられる。
必ず与えられるのだから忍耐強くあらねばならない。
聖書の忍耐と確信は表裏一体をなすものなのだ。
ただ私たちが求めても求めても与えられないときがある。
それは私たちの心の底に自己中心が座っており、自分を喜ばすことや、神の名のためでなく、自分の名のために求めているときではないだろうか。
問題は、求めてはいるけれども、神の御名があがめられるとともに、それによって私の名もあがめられたいという考えがどこかにあることである。
懸命に求めても与えられないのは神のご計画があるからである。
それは私たちの求め方を清めてくださっていることでもあるのだ。
だから求めても与えられないことも喜べばよい。
神はできるだけ人間の自己中心の考えをなくそうと訓練される。
その訓練に耐えられず投げ出していく人がなんと多いことであろう。
神はこの訓練をヘて、私たちの祈りを清め、真実に聞こうとしておられるのである。
だから忍耐強く求めていくことがたいせつなのだ。
8節、9節はヤコブの全身全霊をこめた言葉である。
「神に近づきなさい」。
ほんとうは、神が近づいてくださったのであり、私たちが近づくのではない。
また近づけきえないだろう。
けれどもヤコブは近づけ、とにかく近づけ、手を清めよ、心を清くせよと言う。
最後には苦しめ、悲しめ、泣けと言っている。
しかも笑いも悲しみに、喜びも憂いに変えよとつけ加える。
宗教というものはその反対であり、笑いを人間に与えるものであるのに、どうしたことか。
それは、私たちが神に近づこうとするとき、近づけない自分を、人から教えられるのではなく、自分の中で発見するということである。
私たちは、行為によっては絶対に救われないことをパウロの神学で知るのでなく、聖書によって知るのでさえなく、私たちの生活の中で経験していかなければならないのである。
どんなに努力し励んでも、私たちは神に近づくことはできない。
そのことがはっきりしたとき、神に頼るよりほかはないことがわかる。
そのときはじめて、ヤコプの言う、へりくだる者になれるのである。
God Bless You!!
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