2021年9月19日(日)の手紙

2021年9月19日(日)


『わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。』ヤコブの手紙3章2節


この第3章は舌というテーマを取り上げ、信仰と行いを問題にしているところである。

「舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。
……舌は火である」。

まことにそのとおりである。

あんなことを言わなければよかったのに、ああ、ひどいことを言ってしまったと悔いる経験をした人は決して私だけではないだろう。

小さな言葉ですら多くの人を苦しめたり、悲しませたり、さらにさまざまな災いを起こしたりすることは、私たちの常に経験するところである。

しかしそういうこと以上に、この舌が神を賛美し、神をのろうという二つのことを平気でできることに、問題の重大性があるのである。

神に対して私たちは絶えず二枚舌である。
ヤコプは、兄弟よ、このようなことはあるべきでない、と言っているのである。

もし神だけを賛美する舌になっていこうと思えば、私たちの魂が常に神を賛美することだけに満たされていなければならない。

舌は単独に動くのではない。
私たちの信仰生活の影響の下にあるのだ。

信仰生活が、あるときは人間的になり、またあるときは神に向いてという姿勢になるから、二枚舌になってしまうのだ。

この舌の災いから自分を守り、信仰姿勢を正していくために必要なのは、沈黙ではないだろうか。
沈黙はむずかしい。
けれどもこのことによって神の訪れの足音が聞ける。

イエスが沈黙されたのはなにも黙ってしまわれたのではなく、一生懸命そこで神の声に耳を傾けられたのである。
聞くべきことを聞くためには、沈黙のための闘いが必要なのではないだろうか。

さらに神を賛美する機会を多くすることが舌への対策であり、そして信仰への前進である。
「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」とはこのことである。

フランスのカトリックの修道士が、心臓の鼓動に合わすぐらいにイエスの名を呼んでいく、すなわち「体で祈る」ということを言っている。

確かに他のことを言わないという、機械的にも思えるそのことの中に、観念的でない信仰の営みがあるのではないだろうか。

私たちは、いま神のことを思っているかと思えば、もう次の瞬間は、どこへ行けば安いものを売っているとか、だれそれに負けないようにしようとか考えてしまう。

舌もまったく同じ弱さにある。
その弱さ、エゴイズムを取ってしまうのではなく、出てくる余地のないようにすることがたいせつなのである。

悪魔の入る機会をなくする、私たちの世の思いが頭をもたげてくるときをなくするのが、信仰の精進なのである。

God Bless You!!


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