2021年9月18日(土)
『だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。』ヤコブの手紙2章12節
第1章の22節に、「そして、御言を行う人になりなさい」という言葉がある。
これがヤコブ書のテーマである。
「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」。
これが信仰の根本であるが、これが曲解され、人間の行為はまったく意味がないと自己中心の理屈がつけられていったことは周知のとおりである。
これはすでにローマ人への手紙が記されたときに出てきた状況であり、「恵みが増し加わるために、罪にとどまるべき」と言う人に対して、パウロは「断じてそうではない」と言ったのである。
14節からは有名な信仰と行いの問題を語っている。
これを信仰よりも行いが大事なのだと受け取るのは誤りである。
信仰が真実なものになるためには、行いが伴ってこないとおかしいということである。
このごろのキリスト教会では、私などの信仰姿勢は、敬度派だ、神に祈ったりすることだけ懸命にしている行動のない者だと非難されているようである。
私もその点については気をつけていかなければと思っている。
聖書を学ぶことで精いっぱいで、そこから手も足も出ないというのではいけない。
聖書の言葉は、何々しなさいと言うのだから、私たちに行為を求めているのである。
それゆえ、神様、私は何をなすべきですか、そのために何かをすることがありますかと祈って問い、実行するところへ進むのが、ほんとうの行き方である。
アシュラムも、2、3日集まってなにか法悦境にひたり、聖書はこうだとか言ってみてもなんの足しにもならない、などと批判される。
しかし、信仰から出ていない行いは、どこまでも自己中心の世界から出られるものではない。
飯沼二郎先生の『イエスのことばによる行動の手引き』には、まさにこのことが書かれている。
先生は自分のことをまず、非常に冷たい人間であり、狭い心しか持たず、隣人や人のために尽くすことは絶対にできないと断罪する。
しかし、ただイエスを仰ぐときに、そんなに冷たい私でも愛の炎に燃やされると言うのである。
この、イエスを仰ぐことが信仰である。
だから信仰がなければ、愛の行いはできないのである。
いまの社会は、あらゆる場で自己愛、エゴイズムにもとづく行動が横行している。
それを非難攻撃する群れも、どんなに巧級な理論や人間愛を説いていたとしても、彼らもまた自己愛からのがれられない。
私は、行いがただ単に自分の思いから出ていたのでは必ず挫折すると思うのである。
それは自分しか愛せない、生まれたままの人間の性である。
それが、神が用いてくださっているという信仰に立つとき、はじめて自家鐘着でない行いを生むことができるのである。
God Bless You!!
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