2021年9月15日(水)の手紙

2021年9月15日(水)


『主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を、むち打たれるのである。』ヘブル人への手紙12章6節


旧約時代の信仰の先達、エレミヤ、イザヤなどは、その信仰のゆえに苦しみを受け、「この世は彼らの住む所ではなかった」という状態であった。

いつの世にあっても、神に愛されている者にとって、この世の与える苦しみは当然受けなければならないものなのである。

幾多の信仰の勇者たちが、信仰生活は狭い道であることを示してくれている。
しかし、苦しみはこの世が与えるものだけではない。
人間の内なる闘いの苦しみも、私たちを押しつぶそうとするのである。

だがここで主の御声を聞く。
それは訓練である。
訓練を受けているということは、わたしから愛されているのだと。

イエスは、ぶどうの木と枝の譬えで、実を結ばない枝は取り除くと言われた。
これは剪定ということである。
よい果実を作るためには必須のことである。

摘果、それは一つのものを大きく育てていくためにむだなものを除いていくことである。
私たちの中にはむだなものがある。
しかし私たちは、それを惜しみ、自分で切り捨てることができない。

これを御言葉で切っていくのである。

私に基準を置くと、あれもこれもと混乱してわからなくなる。
神に基準を置くとき、はじめてむだなものがわかってくる。

御言葉によって記憶されている神の基準で、私たちの内側を、生活のむだを、必要を、峻別していかなければならないと思う。

苦しみや災難にあってみて、あのときは痛かった、苦しかったけれど、結果、あれが私の信仰のためにはむだではなかったと、はじめて思う。
あれで私は信仰の純粋さを守ることができたのだと合点がいく。

「今知らず、後知るべし」であり、ほんとうにいまはわからない。
けれども、やがてそうわかる時が来るのである。

箴言に「金を試みるものは炉、人の心を試みるものは主である」とある。

鉱石はどんな立派なものでも不純であり、ほとんど不用なものを含んでいる。
それが炉に投げ込まれ、どろどろになって、はじめて必要なもの、不必要なものが分けられる。

だから苦しみにあっても、必ずそれには神のすばらしい計画があることを忘れてはならない。

神は、私たちを愛してくださっているからこそ苦しみの訓練を与えられる。
神に目を上げて苦しみを通っていくと、神との距離がだんだん近づいていき、ついには神の栄光を拝することができる。

親が子を育てるときの苦労は大きい。
しかし、子の成長の喜びの期待によって、苦労は耐えられる。

クリスチャンも苦しみはあるけれど、信仰の喜びは苦しみを溶かしてしまうものである。
それは、天的なものであり、地上のどんなものよりまさった喜びである。

God Bless You!!


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