2021年9月14日(火)の手紙

2021年9月14日(火)


『信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、……悟るのである。』ヘブル人への手紙11章3節


アブラハムは平穏な生活を送っていた。
ところが、彼は神から突然召された。

神の言葉は天地をとどろかすように語られる。
にもかかわらず、それは気をつけていないと聞くことができない。

私たちは、聞いても、それを受け入れなかったり、私に語られたものとして聞かなかったりする。
アブラハムが神の言葉を聞いたという単純な記述は、彼がそれを自分自身に語られたこととして聞いたことを意味する。

語られた言葉を私への言葉として受け取ると、それが、私に決断を求め、生活の変化を迫ってくる。
これが神の言葉である。

アプラハムは、「行く先を知らないで」出ていった。
ここに信仰がある。

しかし彼は、倫理上もゆるされない失敗や罪を重ねた。
私たちの基準からするなら、決して手本になどできる人ではなかった。

にもかかわらず、彼はその中で神の約束にしがみついていった。
失敗の上に恥をかき、罪を重ねても、なお神の約束に頼っていたからこそ、彼は信仰の父と呼ばれたのである。

モーセの生涯もしかり。
彼がエジプトの宮殿にいたなら、人間的に見れば悲運の波にもまれることはなかったであろう。

けれども彼は、罪のはかない歓楽にふけるよりは、神と共に虐待されるほうを選んだのであった。
彼はそこを出て、多くの人に憎まれ、多くの人に突き上げられながら、あの荒野を導かれていった。

私はいつ読んでも、モーセがカナンの地を前にして、神から、与えた地に導き入れることはできないと言われたくだりに胸が詰まってくる。

なぜ神は、一歩でも入ることを許されなかったのか。
40年もかかり、イスラエルの頑迷な男たちをなだめたりすかしたりしながら、血みどろになって出てきたというのに。

そこには失敗もあった。
しかし、そんなことくらいで、なぜ神はモーセにあのヨルダン川を渡らせなかったのだろうか。

モーセは、おおぜいのイスラエルの人たちに別れを告げて、一人でとぼとぼと山へ入っていく。
そのとき、モーセの心はどんなに寂しく、悲しかっただろう。

アブラハムもモーセも、立場は違えど、神に聞き従ったことは同じである。
神の意思に従うことは、あくまでその人の自由意志である。
従っても従わなくてもよかった。

そういう中で従ったのが、この人たちの道であった。

ある書物に「十字架とは、背負っても背負わなくてもよいものを背負うことである」と書いてあった。
十字架とは、逃げることができる、避けることができるのに、しかもこれを背負っていくものなのである。

どんなに小さな十字架でもよい。
これを神の言葉として受け、逃げずに背負って従っていくならば、主の祝福にあずかる者となり、また世界が神の言葉によって成っていることを悟らせていただけるのである。

God Bless You!!


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