2021年9月12日(日)の手紙

2021年9月12日(日)


『キリストは新しい契約の仲保者なのである。』ヘブル人への手紙9章15節


幕屋のためモーセが神の示されたとおりのものを建てたことは、非常に大きな意味があった。

幕屋には、聖所と至聖所の二部分があって、至聖所へは年一回大祭司が入り、自分と民との贖いの血を携えていったのである。

ところがその聖所と至聖所との間を隔てる幕が上から下まで破れた。
イエスが十字架につき亡くなったときである。

イエス・キリストの死によって、聖所と至聖所というものがなくなったわけである。
すべての者が神のところへ直接行き、神と相対することができるようになったのである。

大祭司が年に一度しかできなかったことが、いま私たちにはいつでもできるようになった。
これこそが福音の世界である。

今日は、幕屋において供物をすることが不要となり、私たちのほうから何もささげなくても、価なくして礼拝し、神の子とされる。
イエスご自身のささげ物によって、私たちのいっさいの罪が取り除かれた。

これは考えれば考えるほどすばらしい世界である。
福音とは、それほどまでに具体的な喜びなのである。

私たち日本人は罪の感覚が鈍い。
おはらいの言葉というものがある。
けがれをはらう祝詞(のりと)である。

それは、人間の罪のけがれを川へ流せと教えている。
流してしまえばよい、悪いことを流したらよいという考えである。
神社で手を洗うのもそうである。

その罪のけがれに対する人間の責任がない。

聖書は、血を流すことによらなければ、罪のゆるしはないと教える。
血を流すとは、死である。
死ぬことは最大の責任のとり方である。

なぜ罪をそんなに大きく考えるのか。
それは人間が神によって造られ、罪は造り主である神に対する反逆だからである。

神に造られた者が罪を犯すことは、神に対して責任があるわけである。
だから神はそれを責められる。

ところがその責任を負ってくださったのが、イエス・キリストの十字架の死なのだ。
イザヤ書に「われわれの不義のために砕かれた」と預言され、それが成就したのである。

第9章の最後に、「彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである」と記されている。

これこそ再臨である。

イエスは再び来たりたもう。
その時、そこが私たちの勝負どころであり、喜びの時である。

主が来たりたもう時は、詩人が歌ったように、「今まさに明けゆく東の空に先触れの輝き」と、朝が明けるのである。

しかし厳しい時である。
まさしく勝負どころである。
その勝負どころを目標にしていかない信仰生活は、単なる倫理である。

キリストの十字架により救われるとは、どういうことか。
それは、まさしく再臨の時にわからせていただくことであり、私たちはその時まったく救われるのである。

God Bless You!!


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