2021年8月7日(土)の手紙

2021年8月7日(土)


『わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに……。』ピリピ人への手紙3章8節


2節に「あの犬ども」という非常に厳しい言葉が使われている。
犬ども、あるいは悪い働き人とは、「肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい」とあるように、救いは律法によると思っていたユダヤ人のことである。

キリストが来てくださったのに、なお人間の知恵とか力に頼もうとしていた人のことをさしている。

一方、パウロは自身について「律法の義については落ち度のない者である」と書く。
自分には落ち度がないとはなかなか言えることではないが、そうパウロが言ったのは、どんなに彼が自分に厳しかったかを示していると思う。

自分で努力しないで、罪を犯してもイエスによってゆるされると軽く信じていたのでは、ほんとうの信仰にはならない。
新約聖書を深く読めば、ゆるしだけではなく、神の要求がどんなに強いかを知ることができる。

新約聖書にも、神の要求の厳しさや人間に対する期待が記されているが、それをはっきり理解するには、旧約聖書も読む必要がある。

「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」と言われている。

清い者が相手に対して清さを求めるのは当然である。
こうした神の要求にパウロはこたえていこうと努力した。
しかし努力すればするほど、神から遠い自分を見いだしたのである。

「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」とイエスは言われる。

私たちは自分の心の貧しさを知り、神から遠い存在であることを知るために努力しなければならない。
無学というものは、勉強しないとわからない。

自分は頭が悪いと言う人があるが、それは非常に観念的である。
ほんとうに頭が悪く、無学で、知識も乏しいとわかれば、徹夜ででも勉強するはずである。

だからイエスが「心の貧しい人は幸いである」と言われたのは逆説ではない。
自分が少しぐらい何かできると誇るような者は、イエスに出会うことはできない。

「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに」とある。
イエス・キリストを知ることを私たちは忘れてはならない。

「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」とイエスは言われた。
パウロは、イエスを知る知識の絶大な価値が、この世の比較を絶するものであることを知った。
だから、いっさいのものを損と思うようになったのである。

どこへ持っていっても解決できない、厳しい神の怒りを知り、裁かれ、減ぼされるべき自分におののくとき、そういう自分のために死に、自分のために義となってくださったキリストの恵みが、どんなに大きな恵みであるかを知るのである。

God Bless You!!


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