2021年8月6日(金)の手紙

2021年8月6日(金)


『恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。』ピリピ人への手紙2章12節


パウロはキリストについて、6、7、8節に書いている。

キリストの道とは、自分を徹底的にむなしくすることである。
キリストがご自分をむなしくされなかったら、私たちはキリストと出会うことはありえなかった。

しかし反面、私たちが恐れるのは、自分がなくなることである。
だからいつも、自分を確立し、堅持していくことに一生懸命になる。

しかし、イエスは自分をまったくむなしくされた。

「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった」。

私たちは自分で自分を高めよう、あるいは人から高めてもらおうとしやすい。
イエスは墓から自分で出てこられたわけでもなく、自分で天に上られたわけでもない。
神によって引き上げられたのである。

神がすべてを解決してくださるのを待つことが大事である。

キリスト教信仰において闘っていかなければならないことは、慣れだと思う。
何年間か教会に出席して、奏楽や主の祈り、説教、献金と同じことが続くと、慣れが起こる。
聖書の言葉に対しても慣れてしまうと、神の御言葉を聞こうとする新鮮な期待が失われてしまう。

それゆえパウロは、「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい」と言っている。
信仰の新鮮さを持ち続けていきなさいということである。

キリスト教信仰をしていても、救いということには平然として、事業みたいなものに一生懸命になるのが信仰の態度であるかのように思ってしまうことがある。

あるカトリックの神父の本にこんなことが書かれてあった。
信仰には「中心」と「まわり」がある。
私たちは中心のことよりも、まわりのことに一生懸命になる。
まわりのこととは、バザーとかクリスマスの祝いとかいうものである。

ところが、中心であるイエス・キリストによる自分の救いはおろそかにしている。
これが現在の教会の姿ではないかと言うのである。

中心がしっかりしていれば、そこからまわりのものは生まれてくる。

たとえ生まれてこなくてもかまわない。
バザーをして金をもうけなくてもかまわない。
クリスマスの祝いが今日のように派手なものでなくてもかまわない。

ただ一人一人が、生けるイエス・キリストとの出会いを、自分で感じることがたいせつである。

私たちは、日本の教会がどうとか、世界の教会がどうだとか、いまの社会におけるキリスト教はどうだとかいうことを論じてみたり、教会の運営上どうしたら人がおおぜい来るかということを目的にしたりしやすい。

「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい」。

私たちは「中心」を求めていくのである。
この点でいつも反省しながら信仰していかなければならない。

God Bless You!!


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