2021年8月5日(木)の手紙

2021年8月5日(木)


『いつも喜びをもって祈り……。』ピリピ人への手紙1章4節


ピリピ人への手紙は喜びの書簡とも言われている。

人間は、幸福なときに喜ぶのは普通であって、喜ばないほうがかえっておかしい。
しかし、喜ぶことのできないときに喜ぶのはたいへんむずかしいことである。

この手紙を書いたとき、パウロは獄中にあり、しかも殉教を目前にして、緊迫した状態にあった。
にもかかわらず、この手紙には「喜び」という言葉が多く使われている。
ここに、読者が大きな感動を受ける理由がある。

ここで教えられるのは、喜びの根拠をいったいどこに置いているかということである。
私たちはキリスト教を信仰しつつも、その生活の根拠が自分であったり、この世のことであったりするのではないだろうか。

信仰とは、自分のすべてを神にゆだねることである。
手の内につかんでいるものを手放して、生活の基盤をキリストに置くことである。
神に基盤を置くなら、どんなときにも心を動揺させられることはない。

確かに、神のなさることはすべてよいと信じていくことは決断を要するものだ。
しかしそれが基盤になったとき、はじめて神の愛がどんなに深いかがわかってくるのではないだろうか。

汽車はレールに乗っているかぎり、確実に走っていく。
その行程に山坂や長いトンネルがあっても、レールの上を走っていれば、スムーズに進むのである。
同様に、神の言葉を自分の人生のレールだと決めて走っていけば、スムーズに行くことができるのだ。

私たちが信仰を基盤にするとは、神に自分をゆだねることである。
そこから信仰の喜び、また感謝が生まれてくるのである。
そうでなければ、御利益宗教と同じことになってしまう。

この間、ある人の話に、その人の夫人が病気になったとき、「神様、助けてくださいと祈っていたら、妻の熱が下がった」とのことだった。
私は、それはキリスト教の祈りではないと言い、もう一度祈りを考え直さなければならないと話した。

たいへん厳しいことを言ったのだが、自分が動かないで神を動かそうとしていたのでは、喜びや感謝は生まれてこない。

パウロがピリピ教会について感謝したのは、彼らが「福音にあずかっている」ことであった。
伝道者にとって、信徒の顔が輝いているのを見るくらいうれしいことはない。

福音にあずかるとは、イエスとの交わりにあずかる、恵みをいただくということである。
イエスとの交わりが一本の糸でつながっているぐらいで、風が少し吹けば切れるようであってはならない。

日ごとのパンを食べ、満たされ、力づけられていくように、毎日、福音によって生かされることである。
イエスが私のために十字架についてくださったことが慰めとなり、力、喜びとなっていくことである。

God Bless You!!


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