2021年8月3日(火)
『キリストがあなたを照すであろう。』エペソ人への手紙5章14節
「なたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。
光の子らしく歩きなさい」。
私たちが光の子になっているということは、神に守られて、諸事万端うまくいくということではない。
主にあって光となっていることは、一つの現実である。
私たちが生きてきたこの世の現実は変わらない。
クリスチャンになったから特別に何かいいことがあるとか、光の子にされたから立派な人間になるということではない。
クリスチャンになっても榎本は榎本である。
しかしそれが、神により、イエス・キリストによって、光の子となっている現実がある。
このもう一つの現実、神に愛されている現実に生きる者として、神の愛にこたえていく者になりなさいということである。
「しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
明らかにされたものは皆、光となるのである」。
パウロがここで言うのは、キリストによって、神から愛されているもう一つの現実の前に出てくるときに、暗いものもそこで光を受けるということである。
「眠っている者よ、起きなさい。
死人のなかから、立ち上がりなさい。
そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。
キリストの前にしっかりと立つなら、暗いことも、いやなことも、そこに光が与えられ、それが光の世界になっていくとパウロは言っている。
22節からは、夫と妻に対する教えである。
ここでもキリストが基準になっている。
キリストが教会を愛された、あるいはキリストが教会のかしらであるというキリストと私たちとの関係が、夫婦の関係の原型になっている。
私たちの愛は、愛してくれれば愛するという受動的な面があると思う。
しかし、愛の関係が生まれるには、最初はだれかが能動的に仕えることをしなければならない。
「おはよう」「こんにちは」といったあいさつでも、向こうが言ったらこちらも言おうというのでは、いつまでたってもあいさつできない。
愛の交わりは、だれかが先に仕えることによって生まれ、歯車が回りだすのである。
愛された者は、相手を愛していく者になる。
クリスチャンはキリストにあって、神から愛されているのであるから、自分も人を愛して、愛し愛される世界が生まれてくるわけである。
愛は創造である。
仕えることによって、愛をつくり出していくのである。
なぜ妻が先に書かれ、妻には仕えること、夫には愛することが書かれているのか。
そのことの中で、パウロは女性の天分を語ろうとしているのだと私は思う。
妻の家庭における務めは愛を創造していくことであり、そのためには仕えることがなければならない。
そういう点で女性には大きな使命があることをパウロは強調しているのではないだろうか。
God Bless You!!
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