2021年8月29日(日)の手紙

2021年8月29日(日)


『しかし、このことは知っておかねばならない。』テモテへの手紙第二3章1節


冒頭のこの句は12節にある「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける」ことをさす。
迫害や苦しみを避けたいというのであれば、とうてい信仰を全うすることはできない。

信仰は、キリストと共に苦しみに耐えることである。
だから、苦しみのない信仰というものはないのである。

「しもべは聞きます。主よ、お話しください」は、自己中心でなく、神中心の祈りを示している。
イエスがゲッセマネの園で「みこころのままになさって下さい」と祈られた祈りもまさしくそうである。

キリスト信者だからといって、やせがまんせよとは言わない。
苦しいときは苦しいと言い、腹が立てば立ててもよい、泣きたいときは泣けばよい。
しかし、それで終わらないのである。

自分には自分の願いや目的があり、考えがあるけれども、神の御心が正しいのであるから、「みこころのままになさって下さい」と祈るのである。
神の御心だけが自分の人生において成就することを望む。
それが信仰ではないだろうか。

そういう点で、イエスが「神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われたのも、厳しい世界ではあるが事実である。
私たちの心が富に奪われてしまうからである。

前章2節、12節に、「次の言葉は確実である。『もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。
もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。
もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう』」とある。

キリストと共に死んだなら、またキリストと共に生きることができる。
だから私たちの信仰生活は、キリストと共に死ぬことである。
そのときにキリストと共に生きる世界が生まれてくる。

キリストと喜びを共にする人は多い。
しかし、十字架を負う人は少ない。
復活の喜びの前の受難節を心して守らなければ、復活節の喜びは空虚なものになる。

八方ふさがりのような暗い状態の中にいても、あの、墓を蹴破って出てこられたイエスのように、私たちも神によってよみがえらされるという喜びを味わいたい。

「しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐、それから、わたしがアンテオケ、イコニオム、ルステラで受けた数々の迫害、苦難に、よくも続いてきてくれた」。

そこへ行ったとき、救い出してくださるイエスに出会うのである。
そこまで耐え忍ばなければ、イエスに出会い、イエスが力を持って私たちを救い出してくださるかたであることがわからない。

十字架を背負って歩んでいくとき、私たちは神に出会う。
イエスに出会うことを人生の目的として、喜んで十字架を負う者となりたいものである。

God Bless You!!


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