2021年8月27日(金)の手紙

2021年8月27日(金)


『神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。』テモテへの手紙第二1章8節


テモテはルステラで非常な迫害にあったパウロに、その迫害を乗り越えて従っていこうと献身した。
しかし、そのテモテの信仰があまり燃えないことを、パウロは歯がゆく思っていた。

そこで彼に、「わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい」、「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」と説いた。

どんな困難があり障害があっても、私たちには力と愛と慎みとの霊が与えられているのだから、そこに立ちなさいと、神の力に支えられて、福音のために私と苦しみを共にしてほしいと訴えたのである。

キリスト信者の中には、純粋で、妥協せず、神の前に自分自身を厳しく見つめ、非常に疲れていく人を見かける。
神の言葉をまともに聞いていくことが重荷になってくることがある。

しかし、そのようなものは決して信仰生活ではない。
それは神を除外し、自分の知恵や力でやっていこうとしているからではあるまいか。

神にささげていくというのは、受けたことに対してささげていくのであり、ささげることによって、また受け、そこに神との間の交流が深まるのである。
それがなければ、一時は燃えていても、長く一生涯、信仰を全うすることはできない。

また、中には、教会生活が単なる習慣となり、命を失っている人たちがある。
何も生み出さず、ただその生活を楽しんでいるだけでは、イエスの十字架の犠牲はあまりにも大きすぎる。

私たちが多くのものを生んでいくためには、マリヤが聖霊によってイエスを産んだように、聖霊によらなければならない。
人間の協力や組織づくりだけでは、人を集めることはできても、人を悔い改めに導く真の伝道はできない。

神の力に支えられ、神に慰められてはじめて、私たちは立ち上がり、聖霊によって伝道し、人々にキリストの香りを伝えていくことができるのである。

そういう意味で私たちは、神と近くなっていくことが必要だと思う。
神と向き合って神の言葉を聞くことがなければ、愛するということも抽象的になってしまう。

隠れたところにいます神に祈りなさいとイエスが言われたように、神と共にいる時間をしっかりと持つ生活をしなければならない。
それが義務的になったり、うとましくなってくれば、愛しますと言っても言葉だけのものになってしまう。

「行いと真実とをもって愛し合おうではないか」。

愛はそのように具体的なものである。
テモテに呼びかけ訴えたパウロの声は、主にあってまた私たち一人一人にも呼びかけている声であることを覚えたい。

God Bless You!!


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