2021年8月24日(火)の手紙

2021年8月24日(火)


『信心のために自分を訓練しなさい。』テモテへの手紙第一4章7節


「後の時になると、ある人々は惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう」。

「惑わす霊と悪霊の教」は、当時のコロサイ教会へ送られた手紙でも想像がつく。
それは、「結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする」人のことであり、これをしてはいけない、あれをしてはいけないということである。

むろん宗教には、多少自分を切瑳琢磨し、自分に厳しくある面が必要だと思う。
この世の生活を楽しみながら信仰生活はできるものではない。
私たちの関心がこの世から神のほうへ向いていかなければ、神のおとずれを聞くことはできない。

しかし、それが救いの条件であると考えるなら、これはまちがいである。
それはただ、神のおとずれを聞くためのものでしかなく、私たちの救いはイエス・キリストの十字架以外にはない。

ただ、その十字架の福音にあずかろうと思えば、私たちが生活を楽しんでいたのではそれはできない。
受難節に40日間、イエスの受難を覚えるが、実は、毎日毎日が受難節の一日一日でなければならないのである。

イエスは言われた。
「日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。

また、清いということを考えても同じことが言えるだろう。
信仰生活にとって清いということは大事なことであるが、人間だれしも肉体を持ち、この世に生きているのであるから、完全に清い生活をすることはできない。

日曜日の礼拝に行っていれば自分は清い者であるという考えは、鼻持ちならないものである。
けれども、それをやめたら、私たちには信仰の養いを受けるところがなくなってしまう。
そして、自分の正義感や良識などに頼ってしまうことになる。

その意味で私たちの信仰が養われていくことは、終着駅でなく始発点である。
終着駅になって、そこへ逃げ込めば逃避にすぎないが、養われた力を持って世に出ていけば、それは大きな喜びとなるのである。

「養われて」とは、「しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」と詩人が歌ったように、時を惜しんで神の汀に行き、養われることである。

信仰の養いを受けないで、クリスチャンの生活をしていくことはできない。
そのような生活をするためには、御言葉に聴くことがたいせつである。
聖霊により、毎日聖書の御言葉を読み、そこでイエス・キリストの現実に立っていくことである。

パウロはそのことを、「聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい」と言っているのである。

God Bless You!!


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