2021年8月23日(月)の手紙

2021年8月23日(月)


『さて、監督は……。』テモテへの第一の手紙3章2節


この手紙が書かれた時代は、教会の組織化、制度化が進んでいた。
すなわち、監督、あるいは執事など、教会の組織が生まれてきたのである。

その中での問題を取り上げているのが、第3章である。

この世で立派な人だと言われたり、大きな事業をしていたり、学問があったりすることが、教会の役員になる条件のように勘違いされることがある。

しかしそこには、教会の制度はあっても命はない。

たとえこの世ではだれからも顧みられないような人であっても、その人が立派な信仰を持っていれば、教会では尊ばれることが必要なのである。

私たちはみな等しく、ただ、神の子イエス・キリストのいさおしによって、罪がゆるされ、義とされる。
だから、その人がどんな人であるかは問題ではない。
問題は、イエス・キリストである。

そして、自分のような者を選び、ゆるしてくださった神の前に、恐れとおののきを持って、なんとかこたえていこうとするところに、真実な生き方があることを知るのである。

それが監督や執事の性格であって、それは信仰の実なのである。

監督や執事の条件がいろいろ書かれているが、まず、一人の妻の夫でなければならないと書いてある。
その当時は一夫多妻主義で、その中にあって一夫一婦が唱えられたのである。

さらに、「自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、自分の家をよく治め、謹厳であって……」と続く。

その一つ一つを考えるとき、私たちは、これはもう落第だと思ってしまう。

しかし、良い木は良い実を結ぶではないか。
もしイエス・キリストを信じているなら、どうしてこのような実がみのらないのか。
いばらからぶどうの実がみのるはずはない。

大事なことは、私たちがどこまでイエス・キリストにしっかり結びつけられているかということである。
イエス・キリストとの間に命の交わりが、生ける交わりがなされていれば、ここに書かれているような生活の実をみのらせていただけるのだ。

そのために私たちがなすべきことは、何をするかではなく、どこに立つかということである。
キリストの中に立つことにおいて、私たちはよい実を結んでいくことができるのだ。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。
わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」。

「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」である。

God Bless You!!


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