2021年8月18日(水)の手紙

2021年8月18日(水)


『あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中に示している忍耐と信仰とにつき…。』テサロニケ人への手紙第二1章4節


テサロニケの教会には、非常な迫害や患難があった。
神の言葉を信じて生きていこうと思えば、そこには常に迫害と患難がある。

「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」とパウロが言わざるをえないほどに、神を信じていこうとすれば、そこには闘いがあるのだ。

3節に「あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたひとりびとりの愛が、お互の間に増し加わっているからである」とあるが、ここで注意しなければならないのは、信仰は私の側においてなされるのではないということである。

信仰は成長していくものというよりも、神からいただく、いただき続けていかなければならないものだということである。

きょう新しくいただいていく、という生活が信仰生活である。
去年信じた人は今年のほうが、信仰が成長しているというものではない。

「あなたは初めの愛から離れてしまった」という言葉があるように、私たちもはじめのような純粋な信仰を持ちたいものだと思う。

信仰は命であるから、毎日新しく燃えていかなければならない。
また、受けていかなければならない。

きょう、新しく信仰を求めていかなければ、その人は飢える。
そういうものが信仰である。

信仰についての、また聖書についての知識は、年ごとにふえるかもしれないが、信仰は徹底的に神から受けるものであり、そういう点では信仰に成長という言葉は当てはまらない。

それでは、信仰はただ与えられていくだけのものであろうか。
私たちの側には、何もすることがないのか。

それは違う。
神の約束を信じて自分をまったく明け渡したとき、すばらしい結果があらわれたという証し、また体験を持つことは、私たちの信仰生活の支えになる。

いままで信仰生活を一生懸命続けてきた人が、神の言葉を信じていくことに不安がないのも事実である。
信仰は、ただ与えられるのではなく、求め続けていかなければならない。

「忍耐は錬達を生み出し」と言われる。

信仰を積み重ねていくことにおいて、練達の士というか、普通の人が絶望したり、あわてたりするときにも、なお静かに神に依り頼み、神は必ずこのところに来てくださるに違いないと信じて神を待つことによって、信仰は成長するのだ。

主の再臨の日に、神を信じる者とそうでない者は分かたれ、信じる者はそのとき安息に入れられる。
パウロは、テサロニケの人たちが忍耐と信仰を持って生きていることを誇りとし、喜びを感じていたのである。

God Bless You!!


a:43 t:1 y:0