2021年8月16日(月)の手紙

2021年8月16日(月)


『つとめて落ち着いた生活をし……。』テサロニケ人への手紙4章11節


テサロニケの手紙では、主の再臨が大きな問題として取り上げられている。

私たちは、きょうの生活があすもまた、そのあともずっと続いていくと思っており、世の終わりが来ると言われても、漠然としてよくわからない。

ところが、そのことは聖書の語るところであり、それをいいかげんにしては、聖書全体が骨抜きになってしまう。
聖書を素直に読んでいけば、行き着くところは、主の再臨となるのである。

テサロニケの人たちの間には、この再臨待望の思いが強かったのである。

確かに主の再臨はある。
それに備えて私たちは生きていく。
主が再び来たりたもうときに、空の手で神の前に立つことのないように。

そのとき、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。
わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」というように、主は私たちをご自分の民としてその名を呼んでくださる。

もし呼んでもらえなかったらどうであろうか。
私たちは、主の再臨に備えていくことが信仰生活であることを、もっとはっきりしなければならない。

ところがテサロニケの教会の中に、まちがったことが出てきた。
再臨への切迫感もあってか、それがきょう来るかあす来るかわからないのだから、何もする必要はないと言うような人たちが出てきたのである。

そのことに対してパウロは、「兄弟たちよ。あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい」と言う。

これは一般的な論理を言っているのではなくて、現実から浮き上がってしまった人たちへの誤りを指摘するパウロの警告である。

どうせいまの世は過ぎ去っていく。
きたるべき世こそ本物の世である。
だからいまの世がどうであろうと問題ではないとして、きたるべき世にだけ関心を持ち、いまというものに責任を持とうとしない。

それでは、信仰自体がまちがってくる。
だからパウロは、「落ち着いた生活をしなさい」「自分の仕事に身をいれなさい」と言ったのである。

いまの生活を、商売人は商売人として、学生は学生として、一生懸命それぞれのなすべきことをやりなさい、と言うのである。

それがむしろ、再臨に備える姿、再臨を待ち望む信仰生活の姿勢なのである。
主の再臨を正しく信仰的に受け止めた人は、現実の生活を着実に励んでいくことができる人なのだ。

God Bless You!!


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