2021年8月15日(日)の手紙

2021年8月15日(日)


『わたしたちは患難に会うように定められているのである。』テサロニケ人への手紙第一3章3節


迫害の中にあるテサロニケの信徒たちのことが気がかりでならず、テモテを遣わしてその様子を知ることができたパウロが、けなげにも彼らが患難に耐えて信仰を守っていることを知り、手紙をしたためたのが本書である。

そのテモテの「吉報」を喜び、彼らの信仰によって慰められたパウロは、大きな感謝を神にささげたのであった。

信仰生活をすれば楽になるのであれば、だれでもそれをしていくであろう。
信仰しても苦しみがあるとき、もうやめておこうという気持ちになるのではないか。
特に、十字架を負ってイエスに従っていく者にとってはなおさらであろう。

それでは、なぜ私たちは福音を伝えるのか。
一つは、イエス・キリストの上にあらわれた神の愛を思うとき、自分に患難が訪れることとか、他の人はみな楽しく優雅な生活をしていることなどは問題でなくなるからである。

いま一つは、本章の終わりにあるように、「わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように」、つまり、イエス・キリストの再臨を信じるからである。

主の再臨を信じなければ、キリスト教信仰は成り立たず、またその生活をすることはできない。
私たちの望みは終末、再臨の時に、キリストから「これはわたしのものだ」と言っていただくことだと思う。
その約束を信じるがゆえに、私たちはキリストと共に十字架を負っていくことを喜じぶのではないか。

主が再び来られるということは聖書の焦点である。
このことを信じない信仰はどこかでごまかされていき、行き詰まってしまう。

しかしこのことは、私たちの経験や知識で割り出すことはできない。
そういうものでは信じられないことである。

3節の御言葉に再び注目しよう。
「わたしたちは患難に会うように定められているのである」。

ある意味においては、患難にあい、自分ではどうすることもできなくなってしまったときに、はじめて私たちの近くに歩み寄って共にいてくださるイエスを認めることができるのではないか。

自分の世界が終わったところから神の世界が始まるのである。

どこまでも人間の力と可能性を信じて、その範囲で信仰生活をしていくような、いわゆる世俗信仰では、神に気づくことはできない。
自分に可能性はないが、神の約束にいっさいをかけて生きていくところに、豊かに顧みてくださる神との出会いがある。

いろいろ検討して、可能性があるからやってみようというような世界では、飛躍とか、神によるエクレシア(呼び出された者の集まり)としての生き方は生まれてこないのである。

God Bless You!!


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