2021年7月8日(木)の手紙

2021年7月8日(木)


『わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。』コリント人への手紙第一14章15節


第14章は異言について記されてある。

異言の問題は今日にもつながっているが、コリント教会では、異言を語れないのは聖霊を受けていないからだと主張する人と、それに反対する人とが対立していた。

信仰は、聖霊によらなければイエスを主と言うことができないとあるように、聖霊を受けなければ始まらない。
知識は信仰を導くことができたとしても、聖霊によらなければ信仰は持てないのである。

私たちの教会では、受洗者、求道者のために入門講座を開いている。
これは門の中へ入れる講座ではなく、門まで連れていく入門講座である。
その門へ入るかどうかは自分自身の問題であり、どんなにすばらしい先生が来て話をされても、その話で信仰に入れはしない。

最後は自分で決断するほかない。
この決断をさせるのが、聖霊の働きである。

聖霊は私たちの理性や知識を超えたものであるから、人が聖霊を受けたと言えば、他人が口をはさむ余地はない。
だから聖書は、聖霊を受けたか否かの記述に苦心を払っている。

パウロは、それには実を見ていけと言う。
聖霊の実とは何か。
愛、喜び、平和、寛容……である。

聖霊を受けるとは、自分の体験であり、他人の入れない世界であるから、しばしば主観的に陥りやすい。
感情だけを重んじて、賛美歌を次から次へと歌い、「われもなく 世もなく ただ主のみいませり」との気持ちになり、聖霊を受けたと称する教会もある。

興奮状態となり、異言を語って、聖霊を受けたのだと言う人もいるが果たしてそうだろうか。
この問いの答えは、コリント教会へのパウロの語に示されている。

彼は、賜物は種々であり働きは異なるが、すべては同じ御霊の働きだから、みな平等であると言う。
そのパウロが、「異言を語ることを望むが、特に預言をしてもらいたい」、「一万の言葉を異言で語るよりも……五つの言葉を知性によって語る方が願わしい」と、教会で異言を語ることの誤りを間接的に指摘しているのである。

他の人に通じない異言を語っても、人を信仰に導けず、教会の徳を高めはしない。
だから、霊で祈るとともに知性で祈ろう。
霊で賛美を歌うとともに知性で歌おう。
そうしないと、初心者はどうしてアーメンと言えようかと教える。

生け花は、小さい花、大きい花、形の違うものといろいろな花々が、それぞれの場所を得て調和している。
教会にもいろいろな人がやってくるが、みなが調和していなければならない。
調和のためには一つの目標、一つの筋が通っていなければならない。

それが教会の徳を立てることなのだ。
すべての人がこのために一致する。
神は無秩序の神ではなく、平和の神であるからである。

God Bless You!!


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