2021年7月7日(水)の手紙

2021年7月7日(水)


『愛はいつまでも絶えることがない。』コリント人への手紙第一13章8節


パウロはこの章の3節で、「もし愛がなければ、いっさいは無益である」と宣言している。

人々の言葉、御使いたちの言葉を語っても、預言ができ、あらゆる奥義、知識に通じていても、自分の全財産を人に施しても、殉教しても、もし愛がなければ、それは騒音であり、無に等しく、無益だと言うのである。

つまり、人間がどんなに努力精進し、人間による最高のことをなしても、愛がなければすべてだめだと言うのである。

では「愛」とは、どんなものであろうか。
人間がなしうる愛だろうか。
否、この「愛」とは神の愛なのである。

神の愛がなければ、いっさいは無益であると言うのである。
この愛が人間に出せるものなら、この13章の愛の讃歌は一つの倫理に終わってしまう。
それは、一般受けはしても、聖書が示すものではなくなってしまう。

「尊いのは、愛によって働く信仰だけである」。
割礼があるとかないとかが問題ではなく、尊いのは、キリストの愛によって働く信仰である。

ここで働くのは、キリストの愛であって、私たちの愛ではない。
私たちは、人間の理想の愛とはこういうものだと誤解しやすい。
ここに述べられた愛の記述は、私たちに降り注いだ神の愛なのである。
そして、信仰、希望、愛の中で最大のものは、神の愛だと宣言されるのである。

4節から語られる愛の姿は、「キリスト」という語に置き換えるとき、さらに明らかとなる。

「キリストは寛容であり」。
もしキリストが寛容でなかったら、私たちはとっくに主の幹から断ち切られていたに違いない。

また、「キリストは情け深い」。
私たちの弱さをほんとうに知ってくださるかたなのである。

7節を、「神の愛は」と始めると、神のご性質がよくわかってくる。
「神の愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」。

私自身のいままでの生涯を思うとき、私のしてきたことに徹底的に忍耐された神、何度も何度も罪を犯し、「今度こそ心を入れ替えますから」と悔い改めを繰り返す者を信じてくださった神、何の価値もない私に、いや、大丈夫だ、この者は何かできるのだと、なおも望みをかけてくださる神を思わずにはいられない。

コリントの教会にも、さまざまな賜物を持つ人がいた。
そこで自分の能力を誇る彼らに、最もすぐれた道を示そうと、パウロはこの愛を説いた。
私たちに何ができるかということより、何を与えられているかを説いたのである。

自分が、何ができるかを考え誇っている間は、まだキリストの愛にほんとうに打たれていないのである。
私たちにとって、神が与えてくださった最も大きいものは愛である。

こんなつまらない者をも、キリストの十字架でゆるし、召し、清め、用いてくださった。
このことのゆえに私たちは喜ぶ。
それだけで十分なのである。

God Bless You!!


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