2021年7月6日(火)の手紙

2021年7月6日(火)


『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。』コリント人への手紙第一12章3節


パウロは、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」と宣言する。

「イエスは主である」。
これは私たちの信仰の根本である。

世界にさまざまな宗教があるのに、なぜ私たちはキリスト教を信じるのか。
教会の雰囲気が好きだから、教えに打たれたから、賛美歌が歌えるから、人格が向上するから……。

そうではない。
イエスが私たちの主だからである。
そのことに目が開かれ、気づいたときから、私たちは信者になるのである。

しかし、これは困難な道である。
なぜなら「イエスは主である」とは、「他のすべてのものを主としない」ことだからである。

ヨシュアはイスラエルの民に、「あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさい」と告げたが、異なる神々とはいったい何であろうか。

なるほど、私たちは他の諸宗教を信じてはいない。
しかし聖書に「彼らの神はその腹」と記されてあるように、自分を神としていないだろうか。
自分が何よりもたいせつなものになってはいないか。

主イエスは「神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われるが、もし富むことが人生の目的になるなら、富という神を拝んでいるのである。
また人という神、他人の評価、批評をいちばん恐れる生活をしてはいないだろうか。

このように自分の生活を省みたとき、それほどにしか神やキリストをたいせつなものにしていないところに、私たちの信仰の問題がある。

パウロは、イエスが唯一の主であると気づくには、聖霊の助けがどうしても必要だと言う。
当時のユダヤ教神学とギリシヤ哲学の極まで学んだ彼が、学問ではなく聖霊によらなければと言うのである。

その信仰の熱心さによってもなお、イエスを主と告白できなかった彼は、聖霊の導きによらなければできないと告白する。

ガラテヤ人への手紙第3章には、ガラテヤ教会の人々は、目の前に描き出されるほど十字架上の主が身近な関係にあったのに、その喜びが失われたと記されている。
彼らが、聖霊を受けることより、自分たちの律法によって信仰生活を進めようとしたからだとパウロは言う。

聖霊によってはじめてイエスと私たちとの関係が知らしめられる。
どこまでも受け身であることが、聖霊を受ける私たちの姿勢なのだ。
神からの一方的な恵みを聞いて信じる忠実さ、受け身の忠実さこそ信仰生活である。

信仰生活の中で、何もかもがむなしく、いやになるときがある。
それは、徹底的に受け身であることを忘れているか、そこまで信じ従うことをおろそかにしているかのどちらかである。

パウロは、私たちの努力が先行するのではなく、御霊の働きが先行するのだと強く告げるのである。

God Bless You!!


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