2021年7月4日(日)の手紙

2021年7月4日(日)


『しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。』コリント人への手紙第一10章5節


パウロは前章の終わりの「福音にあずかる」ことをイスラエルの歴史から語る。
現在の私たちがイエス・キリストにより救われた原型を、イスラエルの民のエジプトからの救出に見いだしているのである。

5節までに彼は、「みな」という言葉を繰り返して強調する。
エジプトから「みな」助け出され、乳と蜜との流れる父祖の地カナンへ「みな」行けるはずだったのが、その途中で彼らの犯した罪ゆえに、「みな」がカナンの地に入れたのではなく、大多数の者は荒野で滅ぼされた……。

彼はこのことを、私たちに対する警告であり、訓戒であると言うが、今日の私たちの信仰生活に対しても同じである。

「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」。
いま信仰があると思っても、いつ倒れるかわからないのである。

続いて、このあまりにも有名な言葉が語られる。
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。
神は真実である。
あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」。

この聖句によって、どれだけ多くの人が試練から立ち上がったかわからない。

神の約束を信じて生きようとしたコリント教会の人たちも、少なからぬ試練を受けた。
そして、信仰から脱落していった人も少なくなかった。

その現実の中でパウロは、困難の中でたいせつなことは、約束をしてくださったかたは真実なかただと信じることであり、そこに信仰があると説くのである。

私たちの信仰は、約束の信仰である。
常に将来の信仰である。
いまここで実現するよりも、いつかそれが実現すると待ち望みながら生きていくのである。
そこが、いまここでかなえられるという御利益宗教と違う点である。

将来の約束だから、そこに信じることがなければならない。
わかったから信じる世界でなく、信じたらわかる世界である。
この世界で、私たちが常に闘わなければならないものは、自分の中に生じてくる不信である。

私は、信仰生活とは不信との闘いだと思う。
疑う心も起こさない者は信じていないのである。

聖書を神の約束として信じていこうとするとき、「ほんとうだろうか」「こんなことをしたらばかを目見るんじゃないだろうか」という疑いがだれしも生じてくる。

神の約束とこの世の道理との間には、どうしても摩擦が生じる。
そんなとき、ともすれば私たちは挫折してしまう。

しかし挫折してしまえば約束からもれてしまう。
どこまでも信じ抜かなければ、約束の成就の恵みにはあずかれない。

私たちの頼るべきはこの神の真実のみである。
なぜなら、神は言われたことをどこまでも実行してくださる方なのだから。
これが神の真実である。

God Bless You!!


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