2021年7月31日(土)
『罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし……。』エペソ人への手紙2章5節
エペソの教会の人たちは、「肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった」。
神は、そういうことをするために私たちを造られたのではない。
私たちは神の作品であって、よい行いをするように造られたのである。
しかしそのことを知らないで怒りの子となった者を、イエス・キリストにあって救いに入れられた。
それは神からの恵みであるとパウロはここで言っている。
福音というものは、100パーセント神の恵みである。
なくてはならないものがなかったので与えられた恵みと、なくてもあってもいいものを与えられた恵みとでは、大きな違いがある。
私たちキリスト信者が今日、信仰がはっきりしないのは、なくてはならないものを持っていないことに対するもだえがないからである。
それゆえに、福音信仰をしていくためには、どうしても律法の世界を通らなければならない。
律法なしに福音はありえないと言っても過言ではないだろう。
福音の世界は無律法の世界ではなくて、律法を超越した世界である。
だからイエスは、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。
廃するためではなく、成就するためにきたのである」と言われたのである。
律法の一点一画もおろそかにしてはならないと言われたのはそのことである。
私たちに対する神の要求、あるいは神の怒りが、どんなに大きいものであるかをはっきり示されなければ、ほんとうの意味において福音に生かされ、恵みにあずかる世界はないのだ。
「あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである」。
私たちが近づいたのではなく、神が近づいてこられた。
それはキリストの誕生においてである。
また、イエス・キリストの十字架において、「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである」。
キリストは、数々の規定から成っている戒めの律法の廃棄者であるから、律法の中に悩んでいる者でなければ、キリストには縁がないわけである。
その律法に照らして、神に対して敵意しかいだいていない自分に、神と自分の間に隔ての中垣があることに、もだえ苦しんでいる者にとっては、それがいっさい取り除かれていくことは、新しい人に造り変えられたという喜びを感じるものなのである。
God Bless You!!
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