2021年7月28日(水)の手紙

2021年7月28日(水)


『ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。』ガラテヤ人への手紙5章13節


パウロが、ガラテヤ人に強調してきたことを要約すれば、「神の恵みを無にはしない。
もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになるということだと思う。

パウロ自身が律法に生きてみて、律法によって義とされることはできない、ただ、キリストの十字架の贖いによってのみ義とされるという信仰に到達した。
その喜びを持って、彼の伝道も信仰も始まったと言っているわけである。

彼はそういう福音理解に立って、律法に、あるいは異教の神々にもどっていこうとするガラテヤの教会の人たちをいさめてきた。
その結論のような言葉が第5章1節の言葉だと思う。

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。
だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。

ここで、自由を得させるとは、何をしてもかまわないという意味ではなく、不安からの自由と解釈してもよいと思う。
年寄りは年寄りで、若い人は若い人で、私たちはいろいろな不安を持っている。
そういう不安から自由にされるということである。

13節に、「兄弟たちよ。
あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。
ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい」とある。

これは非常に大事な言葉である。

それを肉の働く機会にするのではなく、愛を持って互いに仕えるような自由にしていきなさい、とパウロは言う。
これは、その自由に、信仰を生かすか殺すかという面があることを示している。
キリスト信者はその自由を捨ててはいけない、とパウロは語り、それを肉の働く機会にしてはいけないと言葉を進めている。

この肉というのは聖霊に支配されていない人間を意味していると言われているが、そういうものが働く機会にするなということは、非常にむずかしいところである。
ともすると、まったく自由になったということから、私たちの生き方はいいかげんになりやすい。

ある人が、自由には何々からの自由と、何々への自由とがあり、ほんとうの自由は、何々からの自由だけではなく、何々への自由、人を愛する自由だと書いていた。

私たちは、人を愛することにおいてずいぶん不自由である。
愛そうと思っても自分が邪魔になったり、この世の生活がブレーキになったりする。
そういう中で人を愛していく自由、そういう目的への自由をパウロは言っているのである。

自分は果たして、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制、謙遜という実を結んでいるか。
聖霊を受けて、得た自由を正しく用いているかの基準として、非常に大事なものである。

God Bless You!!


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