2021年7月27日(火)の手紙

2021年7月27日(火)


『神に知られているのに、どうして……。』ガラテヤ人への手紙4章9節


「神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた」。

ガラテヤの教会の人たちは異邦人であったから、中近東にあった偶像崇拝が非常に盛んであった。
パウロは、そういう神々の奴隷になっている異邦人に対しても、律法主義とともに気を配らなければならなかった。

「しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに」とあるが、これはキリスト教信仰の一つの鍵のような言葉である。
神に知られているとは、他の宗教ではあまり言わない。

神を知るとか、神を知ろうと努力するのが他の宗教であって、なんとかして神を知っていきたいという探究的なものであると思う。

キリスト教では、神を知っていくのではなく、神に知られていることを知らされたところから、信仰が始まる。
私のような者を神が知ってくださったのか、ということから、自分を再解釈していくのである。

私たちは自分のことを、力がない、つまらない者だといろいろ解釈しているが、そのような自分のために、イエスが死んでくださった、また、神が心にかけてくださったというところから、信仰が出発するのである。

どんなときにも、聖書によって人が励まされるのは、神が共にいてくださるからである。
そのとき、その人がどのような人間であろうとそれは問題ではない。
それが問題になっている間は、神が共にいてくださるということがはっきりせず、その信仰はだめになる。

宝がすばらしければ、土の器は問題ではない。
自分はつまらないが、自分の中に持っているこの宝を見てくださいと言えばよいわけである。
それが証しである。
それほどにすばらしい宝を自分の中に持っているということは、それは神に知られているということである。

そうなれば、他のものに頼るのはばからしくなり、頼る気も起きなくなってくるのだ。

ある短大を出た娘さんが、中学を出ただけで建具屋の職人をしていた貧しい男と結婚した。
信仰を持っている人と結婚したいということで、その青年と結ばれたのである。

現在非常に幸せな生活をしている。
私は、その人が結婚したときに、驚きもし、頭も下がった。

私たちは、具体的な結婚というようなことになると、やれ学歴だとか、家柄だとか、月給がいくらだとか、両親がどうだとか、いろいろ言う人が多い。
結婚となると信仰が消えてしまい、他の要素が大きくなってくる弱さを私たちは持っていると思う。

それはパウロの言う「あの無力で貧弱な、もろもろの霊に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか」ということである。
それはいかにも賢い生き方のようであるが、やはり世の力の奴隷になっているのである。

God Bless You!!


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