2021年7月25日(日)の手紙

2021年7月25日(日)


『なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。』ガラテヤ人への手紙2章16節


パウロは、自分は三年間アラビヤで、神の訓練を受けたのであって、先輩たちの指導は受けなかったと言っているように、非常に強い構えを持っていた。

結局ここで言っていることは、私はケパの弟子でもなければ、エルサレム教会の指揮下にあるのでもない、私はキリストの指揮下にある、という意味である。

11節には「ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった」とある。
なにもなじったりしなくてもよいではないかと思う人もあるだろう。
しかし、信仰は、先輩だからとか、あるいは長いつきあいだからとか、恩義があるからということが優先してはならない。

たとえそのような関係があっても、その人が神の前にまちがったことをしていれば、そのことを指摘し、それを聞かなければたもとを分かつというほどに、神との関係が人間の関係に優先しなければならないのだ。

イエス・キリストを愛するがゆえに、パウロは、イエスの十字架より他の何かをもってなどという妥協がたまらなかった。
そこで15節からの彼の福音の告白が生まれてきた。

「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、……キリストを信じる信仰によって義とされるためである。
なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである」

パウロはガラテヤの教会の人たちに対して言う。
あなたがたは律法や割礼を重んじなければならないと言っているが、律法を守って義とされる人間がいるのか。
自分の力では義とされないことがわかったから、キリストを信じたのではなかったか。

それがどうしてまた自分の力に頼ろうとするのか、と。

パウロの信仰がなぜはっきりしているか。
それはパウロが学問をしたからではなく、律法に一生懸命生きたからである。

神の前に心を尽くし、力を尽くして主なる神を愛する、あるいは隣人を愛することに一生懸命になっていくとき、私たちは愛しえない自分を見いだす。
そのとき、キリストが十字架について死んでくださったから、私の罪はこれで死んだのだと、イエスの十字架にすがらなければならなくなってくるのだ。

生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の中に生きており、キリストがよみがえられたように、私は罪ゆるされ、神の子とされたのだとパウロは語る。

現に、いま生きているのも神の恵みによるのであり、私は神の恵みを無にはしない。
もし、義が律法によって得られるとしたら、キリストの死はむだになってしまうではないか。

パウロは、ガラテヤの教会の人が再び律法主義に帰ろうとすることに対して、非常な憤りというか、情熱を持って自分の信仰を告白しているのである。

God Bless You!!


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