2021年7月22日(木)の手紙

2021年7月22日(木)


『キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。』コリント人への手紙第二12章9節


7節以下に「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」とある。
このとげが何であったかはともかく、パウロはその肉体の苦痛が取り除かれるようにと何度も祈った。

ところがそれに対するお答えは、「わたしの恵みはあなたに対して十分である」だった。
パウロの必死の祈りは聴き入れられないばかりか、主の恵みは十分であると言われる。

私たちの生涯の最終目標は、この主の言葉に要約される。
私の中に、どのように神の力があらわれたかということなのである。

病気に対しても、いやされることが最終の目的になってしまうと、この主の御言葉は理解できない。
病のいやしは懸命に祈らなければならない。

しかし、なにがなんでもいやしてもらわなければという熱心さを、神は、喜ばれはしない。
なぜなら、私たちの信仰生活は、地上の満足にあるのではなく、祈りの中で主の御心を知り、従っていくことにあるからである。

ある人は与えられ、ある人は与えられないだろうが、それよりも天上の神のご意志がたいせつなのである。

「主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな」。

生まれたら喜び、死んだら泣き悲しむのは人間の自然の姿である。
だがクリスチャンは、この三たび繰り返される「主が」を見落としてはならない。

人間の世界では喜怒哀楽いろいろあるだろう。
しかしそれが、ほんとうに主の御心でなされたとはっきりしたならば、主の御名をあがめる以外には何も残らないのである。

この主の御名をたたえる者になってこそ、はじめて主の恵みとは何かがわかるのである。

人はみな、涙を流す人生は避けて通り、明るい、光り輝くところで生活したいと願うものだ。
しかしそこにだけ目が向けられては、肝心の神へ目が向けられるだろうか。

弱さだけ見ると、それは哀れなものだろう。
しかし、弱いところに神の力があらわれるならば、これは感謝すべきことなのだ。
この信仰の視点を見失うと、キリスト教もまた御利益宗教になりかねない。

私は、水野源三さんの詩集を出したとき、『わが恵み汝に足れり』という題を出版社にお願いした。

彼は寝たきりで口もきけない、私たちの想像を絶する生活であるのに、生み出す詩にはほんのわずかな不安もなく、実に深い神の慰めを受けている。
それは、源三さんがその弱さの中で、主と出会ったからではなかったか。

パウロは主の言葉が示されたとき、喜んで自分の弱さを誇った。
それはキリストの力が彼に宿るためであった。
だからこそ、侮辱、危機といったものに甘んじたのである。

神との出会いは、私たちが弱くなりきれたとき、すなわち、神を受け入れるよりほかに私に何も残っていないとき、はじめて可能なのである。

God Bless You!!


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