2021年7月21日(水)
『わたしは神の情熱をもって、あなたがたを熱愛している。』コリント人への手紙第二11章2節
パウロは神の熱情を持ってコリントの人を熱愛していると語る。
なぜ彼は自分にそむいたコリントの人を愛するのか。
それはただ、神がコリントの人も一人子を賜うほどに愛しておられるからであり、パウロもまた彼らを愛し、どんな苦労をもいとわなかったのである。
私たちは生活の中でさまざまな人に出会うが、他の人が倒れようが起き上がろうが、私には何の関係もないと思う。
人はみな他人だと考えるからである。
しかし、その他人の中に隣人を見いだすのが信仰である。
関係のない他人が倒れたとき、私たちが責任を感じるのは、その人をも神が愛しておられるという事実があるからである。
私たちはまだまだ、ほんとうには神の愛がわかっていない。
神の愛がどんなに深いものかがわかれば、どんな人に対しても無関心ではありえない。
それが平和問題、社会問題、隣近所の問題、家庭の問題へと発展する。
キリスト信者のすべての行動、証しの生活は、神の愛から出発したのである。
2節からパウロは、信者はキリストと婚約した者であり、彼への純情と貞操を失ってはならないと言う。
純情とはひたすら思うことであり、貞操とは誘惑に負けないことである。
私たちは、キリストへの純情と貞操とを、いま一度点検してみなければならない。
果たして、私たちの思いはキリストだけに向いているだろうか。
誘惑に構えているだろうか。
「サタンも光の天使に擬装する」とある。
悪魔が悪魔の姿であったら問題ではない。
天使らしい、神の使いらしい姿こそ、警戒すべきである。
それは、神よりも自分のことを思ってくれる、心配してくれるような姿で近づいてくる。
アダムとエバは神から、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
しかし書悪を知る木からは取って食べてはならない」と言われた。
これに対して、サタンである蛇は女に、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」と言った。
言外に、なんとひどいことを言われる神ではないかと言って、自分が神よりも女のことを気づかっているように思い込ませたのだ。
「異なるイエス」「違った霊」「違った福音」。
これは、教会の二千年の歴史が物語るものであり、私たちはいつもその危険と隣り合わせにある。
では、正しい信仰はどうすれば得られるのだろうか。
それは聖書全体を繰り返して読むことである。
聖書に一貫して流れているメッセージを受け取ることが、人間の知恵の主観から救うのである。
聖書は、さまざまな時、場、状況の中でそのつど示された、いわば雑多な集積であるが、無統一とも見える集積の中に、一つの統一がある。
この統一のメッセージをしっかり受け止めるところに、信仰は正しく成長するのである。
God Bless You!!
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