2021年7月20日(火)
『わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。』コリント人への手紙第二10章3節
「『あなたがたの間にいて面と向かってはおとなしいが、離れていると、気が強くなる』このパウロが……」で始まる第10章は、コリント人のパウロ評をそのまま相手にぶつける皮肉たっぷりの攻撃で始まる。
11節に「そういう人は心得ているがよい」とあるように、まさに宣戦布告である。
そこには宗教人らしい寛容や度量は少しも感じられない。
しかし、私はここに、パウロが伝道に全身であたっていく姿を見る思いがする。
恥も外聞もない、福音のための切迫感を感じる。
他人の目を意識しながらふるまうのは、真実ではない。
彼の伝道には、なりふりかまう余裕などなかった。
そこに彼の真実があふれている。
あれほどの学問をし、キリストとの出会いの体験を踏まえた大伝道者が、教会からいやがらせを言われるとむきになって対決する姿、その純情さ。
これこそが、福音の証しになくてはならぬものではないだろうか。
今日のクリスチャンは、スマートにポーズをとりすぎているのではないだろうか。
あの人にもこの人にも、よく見られようとする。
進歩派の人たちからは「なるほど、キリスト教は進歩的な考えを持っている」と言われたいし、保守派の人たちにも「うん、堅実な考え方だ」と言われたい。
しかしそれでは、自分の信じることに真剣に生きることから遠のいてしまうのではないか。
自分の主張に対して責任を持ち、生命をかける生き方を、パウロから学ばなければならない。
人前を飾るようなものが信仰ではない。
つまずく人があるかもしれない。
しかし、私たちは恐れず、大胆に伝道していかなければならないと思う。
3節の「わたしたちは、肉にあって……」は、このことを明らかにする。
確かに私たちは肉であって、信じたから急になにか別の者に変わるわけではない。
しかし、私たちの信仰の戦いは、その肉による戦いではなく、神の力によるものなのだ。
いったい、福音をはばまなかった時代や場所があっただろうか。
そもそも主の誕生の始めから、ヘロデ王は彼を殺そうとした。
キリストの福音を伝えていくとき、はばむものがあるのは当然なのである。
私たちは物事を実行するとき、こうだから、ああだからできないと理由づけに懸命になる。
日本の精神風土にはキリスト教的なものがまったくない、だから、いまの現実はやむをえないのだとなる。
これは敗者の論理である。
私たちが、自分の力、肉の力ではなく、霊の力、神の力によって戦っているのだとすれば、障害など問題ではない。
パウロは、自分の伝道の秘訣は神からいただいたものであり、どんなに不条理な社会や環境であろうとも、いっさいをキリストに服従させるのだと、彼の内に働く力によって積極的に語るのである。
God Bless You!!
a:36 t:1 y:0