2021年7月2日(金)の手紙

2021年7月2日(金)


『この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。』コリント人への手紙8章11節


この章は、偶像への供え物について語られる。

第7章の家庭生活と同様、一つの規定のようなものがあり、それで決められなければならないが、たいせつなことは、そこでいかに精神を生かし、配慮がなされていくかということである。

当時の食肉の中には、異教の神殿で神々の供え物としてささげられた牛や羊が、市場へ移されたものが多かった。
コリント教会の中では、これを気づかい、偶像の宮から来たものを食べたら、偶像に犯されはしないかと心配する人も少なくなかった。

一方、「偶像などない。肉を恐れる必要はない」と主張する人もいて、教会は混乱した。
そこでパウロは、偶像への供え物についての「知識」と「愛」との差を説いたのである。

それは、人を誇らすだけの知識と、人の徳を高める愛との違いである。
ここでパウロは、自分が当時最高のエリートであったにもかかわらず、弱い人、知識ある人から見ればおくれた人の立場に立とうとしたのである。

「食物は、わたしたちを神に導くものではない」とパウロは続ける。
肉を食べようが、野菜だけにしようが、直接神に何の関係もないのである。
そういうことに案外と力を入れる人もいるが、パウロは、食物は信仰と関係ないとはっきり言うのである。

何をしても自由ではある。
しかし、それが弱い者たちをつまずかせないようにとひと言つけ加える。
そこに他の人への愛がある。

「この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである」。

主は一人一人の救いのために生涯をささげられたのだから、食べたいものを食べないぐらい、ごく小さなことでしかない。
そして、神のこの大きな犠牲を知ったとき、私たちの生きる方向はおのずから決まってくる。

私たちは、奉仕したとかささげたとか、さも大きなことをしたかのように言うが、それは、ほんとうは小さなことであり、それをびっくりしているのは、まだ主イエスの犠牲の大きさがわかっていないからである。

私たちの隣近所にいる一人一人の弱い魂が滅んでいくことに、神はどんなに痛んでおられるか。
その人の帰りを、放蕩息子の父のようにどれだけ待っておられるか。
それがわかれば、弱い人のための生活が送れるようになるのであり、それが示されると、どんなことがあっても、弱い兄弟のために尽くしていく生活に入れられるのである。

パウロは13節で、彼の困難な伝道生活をせめて支える栄養となる肉を食べないとさえ決意している。
この決意は、キリストの愛に押し出されたからである。

信仰生活とは失う生活でもある。
キリストは私たちのために生命を失われたのだから、私たちもまた一つ一つ自分の大事なものを失いつつ、キリストの栄光にあずかっていきたいのである。

God Bless You!!


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