2021年7月18日(日)の手紙

2021年7月18日(日)


『主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。』コリント人への手紙第二8章9節


私たちは、献金の基準を自分の収入に置きがちである。
しかし、どこまでも大事なことは、信仰にもとづいてささげることである。

什一献金を強調する人が多い。
しかしそれが律法となってはいないか。
収入の十分の一をささげたらそれでよいというものではない。

神が一人子を賜った愛にどうこたえるかに、献金の焦点がある。
マケドニヤの諸教会では、神の愛への応答があふれ出て、惜しみなく施す富となったという。

私たちの信仰生活を考えると、信仰への情熱や、知識、言葉は持っている。
しかし、うっかりすると、それらが具体的な生活にあらわれていないことがある。

キリストの十字架を信じていればそれでよいと、「信じる」ことが抽象化され、心の底にこびりついてしまっている。

イエスの誕生を知った東方の博士たちは、拝するためにやってきた。
彼らは宝の箱を開け、黄金、乳香、没薬など最上のささげものをした。
これが、博士たちの信仰を前進せしめたのではないだろうか。

「私は教会へ行き礼拝に出て、一週間のちりを払っていただいて、そのまま帰りたい。
このうえ、訪問だ、例会だ、証しをせよなどということは、ないほうがよくはないか。
礼拝だけの信仰生活がしたい」。

そう言う人がいる。
しかし、これらのことがあるからこそ、教会の意味があるのではないかと私は思う。
このわずらわしさの中で、私たちは恵みの業に加えられるのである。

どうして、わずらわしさの中で生きることが恵みなのか。
それは、神が御子をこの世に賜った愛の事実にふれることができるからであり、信仰が知識や観念にならず、言葉が肉体となる信仰にまで高められるからである。

主イエスは、神の子として自由自在に生きられる身を捨てて、人間の生きる時間空間の制約の世界に入られた。
自由を捨て、私たちのために、私たちと同じ肉体でわずらわしさを負ってくださった。

私たちも、自分が大事だと考える生活を捨て、自分をささげていってこそ、この神の愛を体で感じ、神と自分との関係が生まれてくるのである。

主は富んでおられたのに、あなたがたのために……。」

私たちは、どうしても自分が貧しくなろうとはせずに、永遠の生命や恩恵をいただこうとする。
しかしそれでは、キリストと違う世界に生きることになってしまう。

キリストの共同相続人とは、キリストが苦しめば私も苦しむということである。
私たちは、キリストと同じ世界に生きなければならない。
主が貧しくなられたように、私たちの生活の何かにおいて、貧しくなる姿勢が必要である。

イエスが隣人のために身を裂かれたのなら、私も小さいなりに身を裂いていって、はじめて共同の相続人になれるのである。

God Bless You!!


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