2021年7月16日(金)の手紙

2021年7月16日(金)


『神の僕として自分をあらわしている。』コリント人への手紙第二6章8節


第6章は、和解の務めを授けられた私たちのあり方を説いている。

「神と共に働く者として」とあるが、これは「神様、ごいっしょに」ではない。
神は書家であり、私たちは神にとって筆の関係である。

私たちが神の道具になることである。
神に、私という筆で存分に書いていただくのである。

3節の「この務」とは、和解の務めである。
以下ずっと読むと、パウロがどんなに自分のない生活をしたかがよくわかる。

「あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている」。

すばらしい生活である。
神のために自分を小さくしてこそ、神が私の中で働いてくださるのである。

マリヤのところへ主の使いが来て、彼女がイエスの母となると告げたとき、マリヤは驚きばかりではなく、不安も感じただろう。
婚約者があるのに子をみごもった姦淫の女として、石で打ち殺されなければならなかったからである。

神の言葉を受け入れることは、自分の誇りと生命を捨てることを意味した。

しかし彼女は、「わたしは主のはしためです。
お言葉どおりこの身に成りますように」と言った。

御言葉に完全に従ったのである。
ここまで自分を小さくゼロとしたとき、彼女は恵まれた女、主の母となった。

キリスト教信仰の眼目は、いかにしてキリストを自分の中に迎えるかである。
キリストが私の中に住んでくださることで、弱い人間にはできないことができるようになる。

パウロは、「生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられる」という体験をした。
その内住のキリストによって、現実に出会ったさまざまな苦しみの中で、彼は神の僕としての証しができたのである。

パウロは神の僕として、主の前に謙遜に、ほんとうだと信じる道をひたすら歩んだ。

9節以下にそれが記されている。
「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり」「何も持たないようであるが、すべての物を持っている」。

これは逆転の人生である。
キリストを内に迎えれば、無一文でもすべてを所有できる。
全世界を支配される神は、いま私の手に何もなくても、必要なとき、必要なだけくださる。
預金をしているのと同じである。

現実には、悲しみ苦しみに遭遇するかもしれない。
しかし、キリストと共に受けるから平安である。
現実の世界が見えない世界の中に組み込まれていくのは、キリストが内に住んでおられるからである。

キリストの内住とはまた、キリストのうちに自分を見いだすことである。
そのとき、私たちの失意の涙はぬぐわれ、どんな状況にあっても変わらぬ真実の生き方が許される。

パウロはこの経験をあらわすのに、言葉のもどかしさを感じるほどの喜びを持って書くのである。

God Bless You!!


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