2021年7月15日(木)の手紙

2021年7月15日(木)


『死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。』コリント人への手紙第二5章4節


第4章18節でパウロは、どんなに苦しんでいても「見えないものに目を注ぐ」と約束を待ち続ける。
この約束を具体的に掘り下げたのが第5章である。

まず地上の幕屋のことが出てくる。
これは私たちの肉の生活、この世の生活のことである。

幕屋は一時的なもので、移ろいやすく、こわれやすい。
これに対し、パウロは天に約束されたものは家だと言う。

幕屋、つまりテントにくらべれば確かなものである。
しかし私たちは逆に、神の約束は霞のようであり、いまの生活こそ確かなものと思ってはいないだろうか。

こうした考えの中に神はいない。
私たちの日ごとのパンはだれが造られたのか。
具体的な生活の一つ一つを支えておられる神とその約束を思いながら、生活を続けなければならない。

「地上の幕屋がこわれる」とき、神からいただくまことの家がある。
私たちは、この地上の生活が順調のときは、なかなか天の家に目を注がないものであるが、地上の生活が幕屋だとわかる日が来る。
そのときやっと上を見るのである。

これは悲しいかな、人間の弱さである。

地上の生活はこわれていくのが本質である。
人間そのものがこわれに向かって進んでいく。
その真実の自分を見つめていくときに、神の救い、天の家が備えられていることに気づかされるのである。

4節に、日常の災い、悲しみ、心労にあえぐ私たちが、「いのちにのまれる」と示されている。
これが信仰生活なのである。

「光はやみの中に輝いている」とはヨハネの言葉である。

ほんとうに、この人生を暗いと悩む人が多い。
だが、この暗い人生のやみに、光が輝いている。
光が輝いた時、それは神が一人子を世に賜った時、クリスマスの日である。
この時があればこそ、私たちの人生が変わってくるのだ。

病んでいたら病んだままで、心を傷つけられたら傷ついたままで、神の愛にのまれ、包まれる。
子どもの苦しみが母の愛に包まれると消えていくように、私のために一人子を賜った神の愛に包まれているとき、この死ぬべき暗い人生の中で、なお、それで終わりでないことが、永遠の世界があることが示されるのである。

5節には、「この事にかなう者にして下さったのは、神である」とある。

放蕩息子の父が、帰ってきた息子を、両手を広げて迎え出たように、神は私たちを受け入れてくださる。
だから、病気になり、失敗し、つまずき、この世の友を失っても私たちは心強い。
神が受け入れ、いのちにのみ込んでくださるからである。
そのいのちと愛があふれているのが主の十字架なのだ。

主のいのちにのまれた私たちがなすべきことは、これからの生涯を自分のために死んでよみがえったかたのために使っていくことである。
15節の言葉はそのことを告げるのである。

God Bless You!!


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