2021年7月14日(水)
『その測り知れないカは神のものであって、わたしたちから出たものでないことが……。』コリント人への手紙第二4章7節
ここでは、パウロの信仰者、伝道者としての態度が語られている。
「わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える」と5節にある。
キリストについて述べるのでなく、キリストを宣べ伝えるのである。
そのままストレートにである。
だから、キリストが私の中に生きていなければ伝えられない。
キリストの内住と聖書に記されているが、これはなにかの神秘的な体験ではない。
キリストが支配する自分になることである。
自分は自分の主人であるから、だれでも自分だけは人に明け渡したくない気持ちがある。
このような自分をキリストに明け渡すとき、はじめてキリストが私たちの中に住んでくださるのである。
どんなに美しい言葉の限りを尽くして宣べ伝えても、キリストがわが内になければ、むなしい響きでしかない。
言葉はまず事実があり、その事実を音や文字で一あらわす。
だから、事実のない言葉ほどむなしいものはない。
信仰の喜びがあれば、内住のキリストがあれば、どんな表現をしようかなどと別に考えなくとも、言葉は相手の心に迫っていくのである。
イエスの語られた言葉を読むと、いかに真理は単純で簡明かがよくわかる。
何時間も考え込まなければならないような話はまったくない。
伝道は、自分の内で働いてくださるイエス・キリストを、私の言葉で単純に語ればよいのである。
「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている」。
すばらしい言葉である。
私たちは、とかくこの土の器を問題にしやすい。
自分のものも、人のものであっても。
けれども、問題は器ではなく、その中身なのである。
よく人に、「榎本先生は、自分の恥ずかしいことを平気で言いますね」と言われることがある。
そう言われても、それがほんとうの自分だからしかたがない。
土の器は土の器でよいのである。
しかし、私には一つの誇りがある。
それはどんな土の器にも、尊い宝が入れられていることである。
この宝を伝えるのが伝道である。
「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない」とある。
パウロは、ありとあらゆる患難を受けた人であった。
それでも行き詰まらず、自由に生きることができた秘密はどこにあったのか。
それは「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」という神の愛への絶対的信頼と、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」との確信に立っていたからである。
私たちの器に預けられた宝をたいせつに、そしてその宝を人に証ししていく者になりたいものである。
God Bless You!!
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